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6章 名物教師(2)

豪放らい落な人柄が救い


在りし日の山田寿夫

 引佐高には、伝説になるほど物事にこだわらない豪放な気質の教師が大勢いた。規律でがんじがらめの戦時中は、「教師のおおらかさがしばしば緊張続きの生徒たちを救った」という。当時、生徒に恐れられる教練助手として着任した故山田寿夫=29回卒、昭和十九―五十年に在職=。「ひいさ」の愛称で親しまれた彼には、懐の大きさ、温かさを示すエピソードが数多く残っている。

 大きな体に大きな声、らんらんと光る大きな目―。戦後発行された校内新聞に、山田は「すべて大作りの“話せる”先生」として紹介されている。スポーツ万能で、武術に秀でた怪力の持ち主。山田は最初、同校に設置された満蒙開拓民の訓練所の助手になり、後に教諭に昇格した。

 助手時代、山田は行進や号令を習う軍事教練の授業も受け持っていた。戦時下の厳しい教育の中でもとりわけ厳しかった軍事教練。だが、山田はただ耐えることだけ教えたのではなかった。生徒がギリギリの状態まで追い詰められると、山田は運動場の隅へ行き生徒に軍歌を教えたという。

 汗まみれ、涙まみれの生徒にとって、声を合わせて歌うことは甘えが許されなかった時代のほんのひとときの息抜きだった。「ひいさには、へこたれた自分も見せられる」という安心感が、何よりの救いとなった。

 生徒より教員仲間の記憶に残る教師もいる。目下の教諭に「この、ばか者」と怒鳴り散らし、数時間後には跡形もなく忘れ去ってしまう故多田実=校長、昭和八―十五年に在職=と、酒好きで、新任教師が来ると必ず飲みに連れ歩いた故金子整=昭和二十三―三十五年に在職=も、周囲を気にせず、豪快に自分のやり方を貫くタイプだった。

 二人に共通するキーワードは「いい(良い)加減」。多田は校長でありながら気軽に教壇に立ち、金子は昆虫採集や登山といった自分の楽しみに生徒を巻き込んだ。二人は「何でもへっちゃら」だった。その明るい雰囲気が、古き良き時代の教師像となって今も語り継がれている。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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