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6章 名物教師(3)

施設の整備に東奔西走


珍しく校長室にいる在りし日の関根貞義

 戦後教育の確立期、農工併設教育の樹立期など引佐高が大きく変わる時期には、穏やかな、いわゆる“校長らしい校長”ではなく、改革や施設整備に全力を挙げる“破天荒な強い校長”が登場した。予算取りに奔走した故関根貞義=昭和二十三―三十年に在職=と、常識を打ち破るような大規模改修をやってのけた故木下重一=30回卒、昭和三十八―四十年に在職=。彼らの強い意思力と巧みな政治力は、同校の歴史の一部を作り、今に語り継がれている。

 関根は「校長室にいない校長」として有名だった。着任以来、庄内分校や農村家庭科、定時制農業科を次々に設置し、その施設整備に心血を注いだ。校長室にいないのは、「予算取りのため校長自ら県へお願いに行っていたから」。引佐高の生き字引といわれる名倉眞五郎(75)=42回卒、昭和二十三―平成一年に在職=は、「(関根の)粘り強い交渉術に、県の職員もほとほと手を焼いたようだ」と懐かしむ。

 一方の木下は、さらに豪傑ぶりを発揮した。木下が着任した昭和三十八年は、長く農業高として歩んできた同校に機械科が生まれた。当然、施設整備が必要となり、校舎北館や機械工場を新設することになった。用地不足のため、木下は従来の施設を大幅に入れ替え、学校のシンボルだった稲荷山まで削った。生徒と教師を総動員して行った突貫工事では、実習服に地下足袋姿の木下が自ら陣頭指揮に立った。

 豪快で型破りな逸話ばかり目立つ中、英語教諭だった竹内晴央(63)=昭和三十八―四十一年に在職=は、「(木下には)自分のような新米教師に気を遣ってくれる優しさ、細やかさもあった」と証言する。

 木下はその最期も型破りだった。昭和四十五年秋、県議選出馬を控えていた木下は不調を感じて病院へ行き、そのまま入院。病床に自民党の公認証書が届くが、本人は一週間後に帰らぬ人となった。学校葬には時の文部大臣から異例の弔辞が届き、浜松の芸者も大挙して押し寄せたと伝えられている。

 学校史と離れたこんな逸話を、今も多くの人々が鮮明に覚えている。生前の木下の強烈な個性と同様、思い出も色あせることはないようだ。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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