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山川の記憶は赤表紙の数学の問題集と結び付いている。大きな手と眼鏡の奥の慈父のようなまなざし。生徒の多くは苦しみながら覚えた因数分解を忘れてしまったが、それを教えた山川のことはよく覚えている。 細江町商工会会長の細田シュン一(71)=44回、細江町気賀=も、山川を「死ぬまで忘れない」という。細田にはスマトラに出征した十二歳年上の叔父がいた。昭和十九年に入学した細田を見て、山川は思わずその叔父の名を口走り、後で「兄弟か」と尋ねたという。十二年も前に教えた生徒の面影。「先生は私の中に叔父の顔を探していた。そして、戦争にすべてをかけた生徒の分まで優しくしてくれた」。細田はそう信じている。 初代機械科長の佐藤繁治(92)=教頭、昭和三十八―四十五年に在職=と、普通科教師で初めて校長に就任した松下芳夫(84)=校長、昭和四十―四十三年に在職=も人情味のある教師だった。ちょうど引佐高が農工併設高として基盤を固めつつあった時代。二人はその人柄で、農業科、機械科の一本気な教諭たちを自然に融和させていった。 周囲の評判では、佐藤は「一番けんかをしない人」。自身も「教頭として上に立つより、一人で製図を描く方が気が楽だった」という。一方の松下は会社員から教員に転身したため視野も広く、相手の気持ちを思いやることにたけていた。「引佐高での和気あいあいの三年間が本当に楽しかった」と振り返るが、その和やかさは、松下自身が醸し出すものだった。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |