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6章 名物教師(4)

心に残る人情厚い人柄


シイタケ栽培を指導する在りし日の山川浩太郎(中)

 「やっぱ、〜ネ」「これは〜ネ」。言葉の末尾に必ず「ネ」を付ける口調から、「ネコ」と呼ばれた優しい先生がいた。林業と数学が専門の故山川浩太郎=教頭、昭和四―二十七年に在職=。温厚を絵に描いたような性格の山川が新婚の妻と連れだって歩く姿は、思春期を迎えた生徒の目には「欠けた所のない幸せの象徴」として映った。仲むつまじい二人にみとれ、実習中の生徒らが水田に落ちてしまった―というほほ笑ましい伝説も残っている。

 山川の記憶は赤表紙の数学の問題集と結び付いている。大きな手と眼鏡の奥の慈父のようなまなざし。生徒の多くは苦しみながら覚えた因数分解を忘れてしまったが、それを教えた山川のことはよく覚えている。

 細江町商工会会長の細田シュン一(71)=44回、細江町気賀=も、山川を「死ぬまで忘れない」という。細田にはスマトラに出征した十二歳年上の叔父がいた。昭和十九年に入学した細田を見て、山川は思わずその叔父の名を口走り、後で「兄弟か」と尋ねたという。十二年も前に教えた生徒の面影。「先生は私の中に叔父の顔を探していた。そして、戦争にすべてをかけた生徒の分まで優しくしてくれた」。細田はそう信じている。

 初代機械科長の佐藤繁治(92)=教頭、昭和三十八―四十五年に在職=と、普通科教師で初めて校長に就任した松下芳夫(84)=校長、昭和四十―四十三年に在職=も人情味のある教師だった。ちょうど引佐高が農工併設高として基盤を固めつつあった時代。二人はその人柄で、農業科、機械科の一本気な教諭たちを自然に融和させていった。

 周囲の評判では、佐藤は「一番けんかをしない人」。自身も「教頭として上に立つより、一人で製図を描く方が気が楽だった」という。一方の松下は会社員から教員に転身したため視野も広く、相手の気持ちを思いやることにたけていた。「引佐高での和気あいあいの三年間が本当に楽しかった」と振り返るが、その和やかさは、松下自身が醸し出すものだった。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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