(2003年6月1日掲載)
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 第1章「校史T」
賤機山ふもとに新校舎
 明治37年から授業が始まった県立高等女学校の新校舎
 明治三十六年九月に安倍郡南賤機村に待望の新校舎が完成し、翌年四月から授業が始まった。

 愛称は「片羽の県立」

 賤機山のふもとにあった校舎は現在の末広町だったが、校門が片羽町側に面していたため「片羽の県立」「片羽時代」と呼ばれた。

 玄関前には赤松の植え込みがあり、松を囲むように二階建ての重厚な「コ」の字型の本館があった。東側隅に二階建ての校舎が一棟、西側には七月に完成した二階建ての寄宿舎が二列に並んでいた。十二月に講堂兼雨天体操室が本館と寄宿舎の間に落成。敷地は四千七百坪(約一万五千五百平方メートル)だった。

 創立二年目の始業式は三十七年四月十一日に行われ、新入生八十二人を加えた全校生徒三百五十人の大所帯になった。開校式は、同年十二月十日に挙行され、開校式歌も歌われた。

 三十九年に「県立高等女学校学則」が改正され、同校に年限一年の補習科が設置された。教科は修身、国語、数学、外国語などで、上級学校への進学希望者に対する受験指導が強化された。

 五年目の四十年に入ると、小学校令の改正で義務教育は六年に延長された。同年三月の入学志願者は定員九十五人に対して百四十人余りに上り、創立以来初めて定員を上回った。

 明治から大正十年ごろまでの授業は一日五時間、週二十八時間で、体操は毎週三時間、普通体操と遊戯が行われた。体操着もなかった当時の服装で、三・四年生の授業では薙刀(なぎなた)体操も行われた。

 厳しい寄宿舎の生活

 生徒は県内各地から来ていたため、寄宿舎制度は必要不可欠だった。三十六年から仮教場の女子工員用宿舎を応用したものの寄宿舎が不足し、職員や近隣の家に下宿した生徒もいた。

 三十七年七月、新校舎横にようやく新しい寄宿舎が落成した。一棟には上下各四室があり、木造二階建ての五棟が建設された。百六十人が収容できる寄宿舎には百四十人ほどが入った。午前五時に起床し、七時に朝食。日露戦争の影響で流行した「二〇三高地」という髪形で登校する生徒の姿が見られた。外出日は週二回で、木曜日の二時間と日曜日午後だけという厳しい生活規則だった。

 三月に第九回卒業生を送り出した四十五年。同年七月三十日に明治天皇が崩御され、一つの時代が終わった。同校も創立期が終わり、飛躍発展の時期に入る。

(文中敬称略)
―土、日曜日に掲載します―


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