| (2003年6月15日掲載) |
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| 第1章「校史T」 |
運動場開墾し食糧生産 十三年四月に国家総動員法が公布され、中等学校以上の生徒の「勤労奉仕」が本格的に始まる。生徒が縫工室での奉仕作業や麻機や賤機地区での茶摘みに取り組んだ。十六年に公布された「国民学校令」で明治の学制発布以来の名称「小学校」が廃止され、「国民学校」に改称された。 太平洋戦争が始まり、戦時体制は一層強化されていく。中部第三連隊での軍衣の修理、静岡職業指導所での職業登録カード二万枚の記入などに駆り出された。 学徒勤労動員が十八年に開始され、三年生以上の上級生が軍需工場へ動員された。小鹿の三菱発動機製作所で「神風」「必勝」と書かれた日の丸の鉢巻きを締め、カーキ色の作業衣にモンペ姿で熟練工並みの仕事に従事させられた。朝八時から八時間ほど働き、夜勤の日は寮に泊まり、朝帰りをするという生活だった。下級生は学校の運動場を開墾し、サツマイモや大豆などの食糧生産に励んだ。校舎は発動機の部品の保管庫になった。 十九年七月にサイパン島が陥落して以降、米軍による本土空襲は日増しに激化した。二十年四月十二日に三菱発動機製作所が爆撃を受け、六月十九日から二十日未明にかけ市内が無差別爆撃され、県立静岡高女も空襲に遭った。 空襲で焼け落ちた校舎 当時の職員、村上さだ(86)は「空から小型爆弾が降ってくる。震えが止まらない。そのうち、一つが校舎に当たった。一瞬のうちにゴォーという音と火が廊下をはって、目の前の学校が真っ赤な炎に包まれた。『学校が焼ける。学校が焼ける』と生徒と抱き合って泣き叫んだ」と振り返る。 朝になると焼け落ちた校舎と半分焼けた体育館、白い壁が黒ずんだ講堂の悲惨な姿が現れた。鈴木嘉子(昭20卒、旧姓兵永)は「東海一の建物と言われた情緒ある校舎が、跡形もなくなった。戦争がいつ終わるか分からない時代で、悲しみに浸れなかった」と声を震わす。 八月十五日、戦争は終わった。生徒は体育館と講堂だけが焼け残った校庭で、近所から借りたラジオの前で終戦の玉音放送を聴いた。 (文中敬称略)
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