(2003年7月27日掲載)
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 第3章「学校活動」ハンドボール部(3)
「苦境に負けない」信念
「地元の国体は当時のメンバーと応援にいきたいですね」と話す池田陸子さん=静岡市銭座町

 池田陸子さん(静岡国体優勝、主将=昭33卒)

 昭和三十二年十月三十日。静岡国体決勝の相手は半田(愛知)。前年の全日本選手権決勝、三十二年の東海四県大会決勝で敗れた宿敵だった。「国体は初戦から今までの大会で負けた高校との雪辱戦。一戦必勝で、『今日を勝とう』という思いが強く夢中でした」

 望月正監督の練習は厳しかった。放課後から日没まで続き、休みは大みそかだけで元日から再び特訓。修学旅行もハンドボール部だけは行かなかった。「望月先生からは『馬鹿野郎』の連続で、『二位はビリと一緒』ともよく言われた。それでも監督がポジションごとに一人ひとりの強い個性を引き出してくれた」。この年、十一人制から七人制へ移行したほか、コートも縮小。選手は戸惑いながらも苦しい練習を繰り広げた。

 屋外コートに強い日差しが照り付ける夏の合宿。水も飲めず、ユニホームからは塩が噴いた。暗くなるとボールに石灰を塗ってミニゲーム。冬になると麻機街道五キロをランニング。四階建て校舎の階段をうさぎ跳びで往復十回…。主将として個性ある部員たちを引っ張った。「先輩が残した伝統を守らなければならないというプレッシャーもあり、かなりしかりつけた」

 国体決勝の試合前に望月監督から穏やかに「思い切り戦え」と励まされ、送り出された。前後半を5―5で終え、延長戦にもつれ込んだ。「得点が入ったのも分からないぐらい集中していた。『絶対負けない』という気持ちが、部員全員に最後まで途切れなかった」

 延長戦もシーソーゲーム。半田の巧妙な試合運びにやや押され気味だったが、独特の攻撃とチームワークがさえ、ついに8―7で試合終了。初優勝が決まった瞬間、会場の清水商グラウンドをぎっしりと埋めた応援団が喜びを爆発させた。「これで監督に恩返しできたという思いでいっぱいだった。私の青春のすべてでした」。選手も肩を抱き合い、歓喜の涙が幾重にも広がった。

 現在は小料理屋「魚政」=静岡市銭座町=で女将として働く。三十歳のときに交通事故で夫を亡くし、優勝当時の校長、諏訪卓三先生に「お前なら頑張れる」と励まされた。「ハンドボールをやっていなければ、ここまで頑張れなかった。練習で染み付いた『苦境に立っても負けない精神』という強い信念が植え付けられていたんでしょう。お世話になった先生方には本当に感謝してます」

(文中敬称略)
―土、日曜日に掲載します―


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