(2003年8月24日掲載)
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 第4章「想い出」
楽しかった寄宿舎生活
 「戦争はすべてのものを奪っていく。世界からなくしてほしい」と話す鈴木明子さん=静岡市清水本町

鈴木明子さん(同窓会清水支部長=昭11卒)

 「県立の女生徒はプライドがあり、実力もありました。同じ学校で受験したのは一人だけで、試験勉強は自分の力だけが頼り。入学するのは大変でしたけど、楽しい学生生活でした」。鈴木明子(昭11卒、旧姓向坂)は昭和六年、焼津の学校から県立高女へ入学した。満州事変や2・26事件など、昭和初期の激動の時代に学生生活を送った。

 「姉がいたから」と、バスケットボール部に入部。身長はクラスでもトップ級の一六〇センチ余りと長身。県大会を二年連続制覇を経験したほか、全国大会にも出場した。「休みがなく毎日練習だったけど、つらいとは思わなかった。寄宿舎のご飯は冷たくなっていたけど」

 校長の方針の下、昭和初期は体力の養成に力が入れられた時代だった。竜爪山や北アルプスの登山、袖師海岸での約五キロの遠泳大会…。水泳は赤帽から黒三本までの五階級で、「私はカッパでしたので、一年生の時には、もう黒三でした。ただ、水着が恥ずかしかった。木綿製で、袖があってスカートもあったから」。

 高校五年間を寮で送った。寄宿舎「萩寮」は木の香りがする木造二階建て。一部屋八畳で、上級生と下級生が四人一緒に過ごした。「父から『共同生活を覚えろ』と言われて入寮しました。田舎で育っていたので、静岡の生活は文化的でした」

 午後十時に消灯。自転車用の懐中電灯を持ち込んで、押し入れの中で勉強する“箱入り娘”になったことも。「部活で遅かったので、勉強は一夜漬け。間に合わなかったんです。『こっくりさん』とかやっていると、見回りに来る先生に時々、見つかりました」

 十四年に結婚。夫は倉庫業、港湾運送事業を中心とした事業を通じて清水港を全国屈指の近代港湾に発展させるとともに、鈴与を清水港の代名詞的な企業にした故鈴木与平。社会福祉と文化教育事業にも情熱を注いだ清水市名誉市民の七代目与平を影で支えた。「戦争ですべての物資をなくし、再建は必死でした。それでも信用だけは空襲で焼けなかった。ここまで成長できたのは祖先や会社の人のおかげと感謝している」

 夫を亡くして十年。現在は同窓会「芙蓉会」の清水支部長を務める。学生生活は「五年間無欠席」というように、入院経験もなく体は丈夫、欠けた歯もない。「若い時に苦労したのが良かったのでしょう。大勢の人にもまれて、私は人の気持ちが分かるようになった。ありがたいことだと思います」

(文中敬称略)
―土、日曜日に掲載します―


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