(2003年9月14日掲載)
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 第4章「想い出」
恩師に贈った金メダル
 「大学時代は先輩のプレーを見て、盗んで覚えました」と話す伊波昭子さん=横浜市中区本牧三之谷

伊波昭子さん(アジア大会テニス4種目V=昭30卒)

 「四つの金メダルのうち、一つは佐久間(徳雄)先生に直接、城北高で渡しました。そのときは、あまり顔には出していませんでしたが、奥さんに話を聞くと、すごく喜んでくれていたようですよ」。昭和三十七年、インドネシアのジャカルタで開かれたアジア大会テニスで、伊波昭子(昭30卒、旧姓福井)は団体戦のほか、個人戦でも単、複、混合の計四種目を制覇した。

 県大会でも優勝し、国体にも出場した姉の山本和子(昭24卒、同)の影響で中学一年から軟式テニスを始めた。静岡城北高に進むと、「入学式の前に、自宅までテニス部の上級生に呼びに来られてしまった。ここから地獄の特訓が始まった」。

 顧問の佐久間の下、少ない部員が三面あるコートでほぼ毎日、練習漬け。早朝一時間、放課後もボールが見えなくなるまでコートを走り回った。夏休みや春休みも返上。雨天時にも、体育館で壁打ちやバスケット部との合同練習など特別メニューが用意されていた。

 「授業中に居眠りしても先生に注意されなかったのは、今思うと猛練習に対する同情心だったのでしょう。三年間、よく体が持ったという感じですね」。二十八年、国体に鈴木文子(昭29卒、旧姓小和田)と組んで出場。翌年は内藤正子(昭31卒、旧姓浦田)とのペアで東海四県、全日本、東日本選手権の舞台に立った。

 高校卒業後、早稲田大に進学し、硬式テニスに転向。当時は珍しいネットプレーヤー。スマッシュやボレーの練習を繰り返した。「こんなに練習が楽でいいのだろうかと思ったため、男子部員に頼んで練習に参加させてもらった。自分でやらなければならなかった」。全日本学生庭球選手権の単で三十三年から二連覇、複で三十二年から三連覇を達成。静岡国体にも出場した。

 アジア大会単決勝は、複の相棒でもある宮城黎子との対戦になった。まだ一度も勝ったことがない雲の上の相手。「神様と対戦しているようだった。捨て身でぶつかり、一生に一度打てるかどうかというボレーが決まった。暑さで宮城さんの疲労が濃く、私の体力勝ちでしょう」。7―5、6―2のストレートで初めて宮城から勝利を収めた。二十五歳のときだった。

 日本女子テニス連盟の結成の発起人で、現在は専務理事を務める。

 「テニスを通じて、大勢の友達ができた。人生を豊かにしてくれた達成感があります。あのコートで先生に教えていただいたことが、今の私の土台になっています」

(文中敬称略)
―土、日曜日に掲載します―


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