(2003年9月20日掲載)
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 第4章「想い出」
"一生涯の趣味"へ決意
 「書は筆を通じて分かればいいと思う。見て楽しんでほしいですね」と話す太田京子さん=静岡市西千代田町

太田京子さん(書家、日展会友=昭14卒)

 昭和五年、静岡の自宅近くで書道塾を開いていた沖六鵬に入門。この時から書との縁が始まった。書家太田京子(昭14卒)は二十七年、日展に初めて入選して以来、入選回数は二十五回を数える。四十六年に県文化奨励賞を受賞。現在は日展会友、独立書人団会員参与、県書道連盟顧問などに就く。「女学校を卒業するころには、『一生の趣味にしたい』という気持ちになっていた。書は余白の取り方など、抽象哲学で難しいですね。心で見るように感じないと、できないのではないのでしょうか」。書との出会いから七十年余が過ぎた。

 母が卒業生だったこともあり、小学校卒業後、県立高女を選んだ。同学年の生徒が初めて二百人を突破した時期でもあった。「あのころは運動学校で、部活は運動部しかなかった」。「カナリヤ」「青い山脈」など、童謡、歌謡曲などを三千曲も作詞した西条八十が学校で講演した影響で、「学校に文化部をつくるという流れができたのでしょう」。

 十二年の四年生の時、学校は北安東に移転。校舎は桃山時代末期の様式を取り入れた和風建築の建物だった。学校にプールがなかったため、水泳の授業は清水の袖師海岸で合宿。遠足は二年が竜爪山、三年は希望者だけ富士山の登山だった。翌年は北アルプスに登ったが、雨天のため二日間、山小屋で過ごした。「予定外でしたけど、楽しかったです。海より山登りの方が好きでしたね。百年の歴史の中でも隆盛の時期だった」

 女学校卒業後、日本女子高等学院(現昭和女子大)へ進学。国語の免許を取得し、二十四年二月から五十二年三月まで母校で週二日、書道の講師を務めた。「城北の生徒は積極的で熱意があった」。石碑に彫った校歌は今でも学校に残る。

 その後、静岡女子短大などで教壇に立ったほか、静岡大では平成九年三月まで約二十四年間、後進の指導に当たった。海外から依頼を受け、北欧やパリ、スペインなど、各国での展覧会に出品して表彰されたほか、十四年には「うたと書」と題した展覧会を開いた。

 「古い昔の歌を書に仕立てることによって、全く新しい作品に変わる。この楽しさは書に親しむ人だけの特権かもしれない。振り返ると、何でも続けることが大事。まだまだ、書く方では現役でいたい」  先日、しまっていた屏風(びょうぶ)を引っ張り出した。北アルプスを登山した思い出を歌にしてつづった作品だった。

(文中敬称略)
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