| (2003年10月25日掲載) |
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| 第4章「想い出」 |
飯原久仁子さん(病理医=昭45卒) 「迷うことが多かった人生でしたが、その都度、尊敬できる先生やいい友達に恵まれました。城北の三年間で友達との接し方や人間としての付き合い方を学んだ気がします」。数学教師から転身した飯原久仁子(昭45卒、旧姓小林)は現在、杏林大医学部で病理学教室の講師を務める。 静岡城北高に入り、一年生の授業で数学に興味を持った。「城北は伸び伸びと育ててくれました。抑え付ける感じがなく、過度な緊張感もなく勉強できる環境でした。城北で培ったことが、今でも学問の基盤になっていますね」。自分で数学の問題を作成し、先生に解いてもらうこともあった。 「大学でも数学をやりたい」と昭和四十六年に名古屋大理学部に進んだ。三年生になると専門授業になり、試験が近付くと毎日家で勉強漬け。一カ月間、家にこもったこともあった。「数学はセンスが必要。数学のすごい世界の扉は見えたのですが、開ける能力はありませんでした。自分の限界がはっきりと見えました」。卒業後は静岡英和女学院に数学教師として就任した。 在職中のある日、アフリカの青空教室の教師を募集する青年海外協力隊の新聞記事を見つけた。「教師時代は、今の自分の生き方に疑問を持っていました。その時、この記事を見て、生き生きと自分を見てくれる生徒と青空で伸び伸びと勉強を教えるイメージが飛び込んできました」。五十三年から約二年間、フィリピンに渡り、数学を教えた。 帰国後、「周りに助けられてばかり。自分自身が力を付けないと人のために何もできない。自信が付くような何かを身に付けたい」と医者を志す。二度目の受験勉強に取り組み、五十六年、浜松医科大に合格。病変部の組織切片から疾患を的確に判断するための病理医を目指し、大学生活を送った。 六十二年から平成元年まで、「いろいろな種類の患者さんを診断して病理の仕事に生かしたい」と静岡済生会総合病院に勤務。内科や外科、産婦人科、整形外科などで多くの患者と接し、経験を積む。東京大学医学部病理学教室、東芝病院を経て、杏林大へ。現在は医学部の教壇にも立っている。 国内に病理医は約千五百人。まだまだ数は少ないが、病気の診断には欠かせない。「自分の存在価値が発揮できる居場所を、ようやく見つけることができました。与えられた仕事を一生懸命にやって、早く一人前の医者になりたい。将来は何かしら発展途上国の人々に関わっていきたいですね」 (文中敬称略)
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| ―土、日曜日に掲載します― |