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 第1部 歩み (1)

校友会誌から報国隊誌へ

 掛川西高に半世紀以上経った今でも残されている一冊の本。黄ばんだ表紙には「昭和十九年四月 静岡県立掛川中学校 報国隊誌 第四十五号」とある。ページをめくると、「序 掛川中学校報国隊長 市村清次郎」と記され、白い升目に自筆の丁寧な字が並ぶ。

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掛川西高に残る報国隊誌第45号
 「戦局はいよいよ苛烈を極め、あらゆる部面に非常措置の強制せらるべきは当然のことである。わが報国隊誌の刊行もまたその例からもれるわけにいかなかった」

 明治三十九年七月から四十年間にわたって続いた掛川中の「校友会誌」(今でいう生徒会誌)が戦時中は「報国隊誌」に変わり、昭和十八年度からついに時局の要請で印刷中止となった。当時の校長市村氏は最後の一年間の記録を「ただにわが学園一年の歴史たるにとどまらない。決戦下、皇国の非常情勢を永く後世に伝えるものとなろう」と記している。

 終戦を掛川中で迎えた草賀文雄県議(昭21卒)=掛川市上西之谷=は市村校長を「体は小柄だが、背筋がピシッとして野武士の風格があった。戦後、ヤミ米を食べずに栄養失調で亡くなった東京地裁の山口良忠判事によく似ていた」と振り返る。草賀県議と一緒に入学し、五年生で卒業した粂田勝治さん(昭22卒)=同市城内=も、「とにかく人格者だった」と話す。

 昭和十六年に掛中に入学し、海軍予科連に籍を置き、二十年九月に復学した鈴木昭三さん(昭22卒)=森町天宮=も市村校長をよく知る一人。幾何の授業中に笑ったと教師に誤解され、教員室前に正座させられていた時、市村校長はこう言ったという。

小柄でも野武士の風格

 「戦局は大本営発表以上に帝国に不利である。わが国の男女中学生にも数カ月のうちに必ず動員が発令される。今日の一日、今の一時間はおまえたちに許された貴重な勉学の時間。早く教室へ行け。陛下の御ために必死に勉学に励め」。

 鈴木さんは、その後、市村校長の予言通り海軍二等飛行兵となり、死を覚悟したこともあった。
 報国隊誌には役員名簿があり、役割ごとに教師と生徒の名前が記されている。国防訓練部には銃剣道班、射撃班、戦場運動班、滑空(グライダー)、時局班などものものしい班の名も。

 「われらはここに固く米英撃滅を誓い、再び本誌の刊行さる、戦勝の暁の一日も早からむことを期するものである」。市村校長の序はこう結ばれている。
 報国隊誌が生徒会誌「天守台」の名前で復活したのは、十六年後の昭和三十五年。戦後の混乱が収まり、日本が高度成長期に入るころだ。

 終戦を告げるラジオ放送。校舎で飛行機部品を製造していた掛川中では、市村校長、工場長、工員など全員がグラウンドに集合した。朝礼台に置かれたラジオはただザーザーというだけで意味がよく聞き取れなかった。当時の生徒によると、放送が終わった時、市村校長だけが拳骨で涙をふいていたのが印象的だったという。
 【注】カッコ内の「卒」は卒業年
   


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