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 第1部 歩み (3)

苦しい学徒動員にも活気

 昭和十六年十二月、日本軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争。当初日本軍の連戦連勝で戦線は拡大の一途をたどったが、その後、戦局は変化し始めた。米軍や連合軍の反撃で日本軍は転進という敗北を余儀なくされた。昭和十九年、当時の掛中三年生たちは学徒動員に駆り出された。動員目的も食糧増産から軍需生産へと変わる。

 三年生約二百人のうち、約五十人が菊川町(当時は堀之内町)堀之内駅北側の「海軍管理工場旭可鍛鉄」、約百五十人が静岡市小鹿の「三菱重工業静岡製作所」にそれぞれ動員された。

kakegawa
旭可鍛鉄へ学徒動員された掛中の生徒たち(撮影時不明)
 横地達雄さん(昭22卒)=掛川市西町=は三菱静岡製作所に動員された一人。「空腹とB29の爆音におびえる日々が終戦まで続いた」と振り返る。仕事は、旋盤で発動機の部品の突起した軸を一定の太さに削る単調な作業。失敗も多く、部品箱の半分は使い物にならず、「こんな素人の少年工の仕事で大丈夫なのか、日本は勝てるのか」と疑問に思ったという。

 二十年四月には空襲により工場が壊滅した。横地さんは「とうとう死ぬのかと思い、地面にはい、もがきにもがいた」と述懐する。

 横地さんは「工場動員のあの一年間の体験は一生忘れられない」というものの、「必ずしも悪い思い出だけでない」とも話す。「確かにつらく苦しかったが、生徒には目的があり活気もあった。今のような無目的な時代と違う」

時代象徴する「国防色」

 多くの同級生が「学徒動員の体験がその後の人生の土台となった」と口をそろえる。堀内良さん(昭21卒)=掛川市掛川=は「生徒間の友情もあり、連帯感も強かった」と振り返り、桑原武さん(昭21卒)=大須賀町横須賀=は「あのころは二百人の同級生が一人ひとりを知っていた」と思いを込める。物資のない時代、若者たちには熱い血が流れ、皆で助け合って生きていた。

 戦争が激化した十七年に入学した二百人の連帯感は確かに強かった。約五十年後、その連帯感が証明される。平成二年、あの少年たちが還暦を迎え、中学時代の体験や記録をまとめた本が発刊された。

 本の名は「国防色の青春」。表紙の色はカーキ色だ。編集者の一人、斉藤周作さん(昭22卒)=掛川市中町=は「配給で学校にきたナンキン袋のような制服。このカーキ色がわれわれの時代を象徴している」と話す。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


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