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静岡市古庄に住む郷土史家、前田匡一郎さん。昭和二十年四月に旧制掛川中に入学。学制改革で高校に入学して二十六年三月、掛川西高を卒業した。 前田さんには何物にも代え難い宝物がある。掛中、掛西時代の六年間、毎日欠かさずつけた日記だ。前田さんは「掛中日記」と呼ぶ。学校の一年間の記録をまとめた校友会誌が戦時中、印刷中止となり、再発刊されたのは戦後の昭和三十五年。その間十六年間もの記録がない今、前田さんの「掛中日記」は貴重な資料の一つとなっている。 日記には毎日の時間割が載っている。国文、生物、幾何、援農、教練などの合間に目立つ「自習」。「とにかく当時は自習の時間が多かった。先生の不足で授業のやり繰りが難しかったのでは」と前田さん。「一年生の時、三年生は学校にいた記憶がない。先生とともに軍需工場に駆り出されていた」ともいう。
昭和二十年の夏休みは八月十一日から二十日までだった。終戦が十五日。二十一日から授業が再開されたが、毎日作業が多く組み入れられていて、工場跡の教室の建て直しをしていた。 戦争が終わっても、授業は武道、教練、修身など以前からの科目が続けられていた。前田さんは「特徴的なのは授業に農業が組み込まれていたこと。食糧事情の悪化を反映して、食糧増産の片棒を担がされていた」と話す。自習時間が相変わらず多かった。 前田さんの同級生、田辺規矩司さん(昭26卒)=静岡市上足洗=。昭和二十年十一月に韓国から家族とともに引き揚げてきて掛中に途中入学した。
「教科書がなくてね。友人から借りて一生懸命写した。とてもうれしくて、その友人の顔は今でも鮮明に覚えている」と懐かしがる。 「先生は苦労したと思う。公民では選挙や政治制度を学ぶが、まだ確立していなかった。教える先生がよく知らないのに生徒が分かるわけがない」と田辺さん。「先生自身、生活が苦しかった上に、教育の目的がはっきりしない時代。先生たちも買い出しや畑仕事に追われ、ある数学の教師は授業の最初から終わりまで身の上話をしていた」と振り返る。 |
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