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郷土史家の前田匡一郎さん(昭26卒)=静岡市古庄=が掛中時代につけた日記には、興味深い記述がたくさんある。 昭和二十年十二月に「理髪代三円に値上げ」、二十一年二月には「校長から新旧の円の話」、二十二年十月は「午後から掛川座で洋画の鑑賞」、同「式部東大教授の講演。演題は魂」といった具合だ。
授業の時間割をみると、「農業」とか「作業」という項目が目立つ。農業は畑の草取り、和田岡への援農、運動場の畑の手入れ、肥えくみと肥え掛け、ハト麦まきなどをしていたらしい。作業は掛川高女(現・掛川東高)からいす、机の搬送、プールの掃除、校庭の垣根の刈り込みなど。 昭和二十年六月十五日の日記には「今日から四日間、農耕隊と協力、戦争にはなくてはならないジャガ芋、サツマ芋を掘り出す作業なのだ。国民学校、女子校と一緒にそれにまい進した」と書かれている。和田岡への援農の時は「お礼に米二合の配給があった」とある。 「とにかく物のない時代だった。現代に比べれば不便と思うかもしれないが、当時はそれが当たり前で何とも思わなかった」と前田さん。手足のしもやけ、あかぎれはいつものこと。上級生が卒業すると、下級生は色あせた南京袋のような服や帽子をもらった。田辺規矩司さん(昭26卒)=静岡市上足洗=は「掛川のまちを歩いていると、電機店になべが並んでいた。電化製品なんてなかった」と笑う。
物のない時代だったから生徒たちは創意工夫をした。ぼろ布を巻いて野球のボールにしたり、校章をボール紙で作ったりしたという。ない道具を作りだす楽しみがあった。 衣食に困窮していた当時は学生の服装も質素を通り越していた。しかし、生徒たちは帽子をあみだにかぶり、てっぺんに靴墨をたっぷり塗っていた。それが「とっぽい」と言われていた。上級生になると、洋服のボタンは思い切りはずし、高歯のげたをガランガランさせながら得意になってかっ歩した。「上級生は怖かった。下級生は上級生がきたらとにかく挙手の礼(敬礼)をした」(前田さん)という。 田辺さんは「戦後の混乱期は大変だったが、皆一番ざっくばらんになれる時だった。親も子供もその日をどう切り抜けていこうかという生活。将来日本はどうなるのか、だれにも分からない。あいつより点数をかせごうなんて人間がいるわけなかった」と話す。 |
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