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カラフルな車体で知られる天竜浜名湖鉄道。奥浜名湖を回って掛川と新所原を結ぶ。前身は二俣線と呼ばれ、北遠と掛川を通るこの鉄道は、戦争直後も森町や豊岡村から掛川中に通学する生徒たちの貴重な足となっていた。 森町天宮の鈴木昭三さん(昭22卒)は昭和十六年に掛中に入学し、海軍予科練時代を除いた約五年間、二俣線で学校に通った。
「当時は蒸気機関車が二、三両の客車を引っ張っていた。下級生は半分客車、半分貨車という車両にギュウギュウ詰めにされていた。上級生は二両目の客車に乗った。そこには他校の女学生も一緒だった」と思い出しながら話す。 半分貨車だった車両は郵便荷物などを積んでいた。あまりの込み具合に車掌が見るに見かねて、荷物室を開放したこともあった。太田川の鉄橋付近はカーブで坂になっていた。乗客の重みで列車は空回りして前に進まない。デッキから堤防の草むらに飛び降りて遊ぶ掛中生もいたという。 静岡市古庄の前田匡一郎さん(昭26卒)は戦時中、豊岡村の母親の実家に疎開していた。野部(現・豊岡)から掛川まで二俣線で通学した。 前田さんの昭和二十一年十一月の日記には「帰りにやっと汽車へ乗れた。炭水車へ乗る者、連結器に乗る者、窓から入る者など乗り降り混雑の中でやっと野部で降りられた」と書いてある。
敗戦後の何もない時代。前田さんによると、有蓋車ワム、ワラなど小型の貨車に腰掛けを作って人が乗った。貨車の入り口の鉄の扉を開けると豚のにおい、肥料のにおいやら石灰も残っていて何とも言えないありさま。雨が降ったり風が強い時にドアを閉めると、人畜のにおいが入り混じってむせ返ったという。 食糧不足でヤミ市が横行していたころ、朝の掛中の教室で農産物と現金の交換会が開かれたこともあった。鈴木さんは「二俣線の沿線から通う生徒は農家が多かったので、交換会の物資をたくさん調達してきた」と証言する。 交換会には米や芋、豆、たばこなどが持ち込まれ、時には革靴、シャツ、手ぬぐい、軍手なども。「経済警察が当時、掛川駅でヤミ物資の取り締まりをしていた。捕まらない方法として、かばんに米や芋などを詰め込んで、ふろしき包みに教科書を入れた。警察官はふろしきだけ点検したので助かった」と鈴木さんは振り返る。 |
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