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 第1部 歩み (7)

謹慎処分撤回へ学園紛争

 昭和四十四年夏。国内各地で巻き起こった大学紛争の余波を受けるような形で、掛川西高に学園紛争の火の手が上がった。同年六月、アジア太平洋閣僚会議(ASPAC)=伊東市川奈で開催=の阻止デモに参加した三年生徒の謹慎処分をめぐり、「掛西反戦会議」を掲げる一部生徒グループが処分撤回を求める抗議運動を展開。外部の団体も乗り込んで、ゲバを誘発するまでにエスカレートした。

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当時の記録をひもときながら掛西紛争を述懐する上圷氏=掛川市葛ケ丘
 当時三年のクラス担任で江塚幸夫校長=故人=の指示で広報課長として記録を残した上圷(かみあくつ)和之さん=掛川市葛ケ丘、昭59―60年度校長=は、「連日の家庭訪問と職員会議。四十数年間の教職生活の中でも最も苦労し、特異な日々だった。数々の場面が脳裏に刻まれて離れない」と振り返る。

 同年六月八日のアスパック阻止デモには、三年生八人が参加し、うち四人が逮捕された。学校側は、これら生徒が「選択講座」「一部教科の学力別クラス編成」などに反発して一月ごろから校則違反や授業放棄を重ねてきた行動を勘案して、八人の無期謹慎を決定した。生徒たちは処分を不当として、さらにビラまきやアジ演説を繰り広げた。

 上圷さんと同じくクラス担任だった石田徳行さん=静岡市竜南、元静岡市教育長=は「指導措置後、彼らの行動は過激化していった。校門の前で教師と生徒がもみ合い、シンパの生徒が取り囲む。ああいう光景は二度と見たくない」と述懐する。先鋭化の一途をたどる生徒の行動に、学校側は七月、「学校の指導はすで限界」と判断し、七人の生徒に自主退学を勧告した。

苦悩の日々今も脳裏に

 「大学紛争のいきさつから、学生の政治的活動への処分はタブー視されていた。掛川西高の姿勢はがぜん世間の注目を集めた」と上圷さん。

 一学期の修了式も急きょ一週間繰り上げられたものの、新左翼系の政治団体が積極的なかかわりを見せてきた。騒乱のピークは二学期が始まる前日、八月三十一日に学校周辺で行われた集会とデモ行進。ヘルメット、ゲバ棒姿の若者約三百人が集まり、校門前では、校内に待機していた三百人近い機動隊と衝突した。

 当時、県内の幾つかの高校でも学園紛争の動きはあった。ではなぜ、先んじて掛川西高で起こったのか。

 上圷さんは「世相に敏感な生徒があの学年に集まり、その生徒たちを支援した校外の人たちがいたからではなかろうか。アスパックが県内で開かれていなかったら、起こらなかったかもしれない」。石田さんは「発端は授業に対する素朴な疑問からだったと思う。その背景には掛川のまじめで素朴な風土があるのでは。時代の波にもまれて、紛争という形になってはしまったが」と語った。


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