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アスパック阻止デモに参加した生徒の処分をめぐり、大きく揺れた掛川西高。「大学紛争の波紋がついに高校に及んだか」。昭和四十四年夏。世間の注目はいや応なしに高まった。しかし、当時の在校生の多くは「過激な行動に身を投じたのは、ほんの一握りの生徒。三年生十数人のグループで、ほとんどの生徒は無関心だった」と語る。高度経済成長のさ中、都会にはアイビールックの若者がかっ歩し、ヒッピーが流行した時代。「遠巻きに冷めた目で見ていた」という声も少なくない。 中には「アスパックそのものより、このグループが校内の問題を取り上げて学校側と激しくやり合っていたことの方が記憶にある」と話す人がいる。
活動に参加した女性は、当時の思いを「このまま進学しても、その先に自己を確立できるものがあると思えなかった。大学紛争で試験がなくなったし、大学自体もなくなると思った」と語る。「ただ、振り返ってみると、既存の価値観を壊すだけで、何かを構築しようということはなかった。力と力のぶつかり合いでは何も解決しないと身をもって感じた」
校内問題に終始していた彼らの主張は、アスパック以降、謹慎処分の撤回とともに国政へと標的が変わる。外部勢力の介入が進むにつれ、活動も変質していった。最後のヤマ場となった八・三一デモは、約三百人の参加者のうち西高関係者は四人が確認されたのみ。ほとんどが外部組織で、掛川西高はいつの間にか、過激派の舞台に置き換えられたような形になった。 退学を勧告された生徒の多くは、県外の私立高へ転校した。そして九月下旬以降、急速に活動の影はひそめ、校内には落ち着いた日々が戻ってきた。 あの紛争から三十年が経過した現在、退学になった男子生徒の一人は「時間の流れを感じる」と穏やかに語る。「教育は子供が自立していく過程を助けることだと思う。当時も今も、その役割を学校が果たしているかは疑問だが、先生に恨みを抱いたことは一度もない」という。退学時に担任だった教師とはその後も親交が続き、仲人を頼んだ。そして自分の娘が今春、晴れて掛川西高に入学した。 |
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