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掛川市掛川の大日本報徳社の敷地の一角に、古びた木造の建物がある。この建物が掛中、掛西の前身である私塾「冀北(きほく)学舎」の校舎の一部だったことを知る人は少ない。現在大日本報徳社の常任参事を務める堀内良さん(昭21卒)=掛川市掛川=も「冀北学舎については昔から聞いていたが、校舎が残っていることは長い間知らなかった」と話す一人だ。
岡田は大庄屋の家に生まれ、幼いころから数学や歴史など学問に秀でた少年だった。父佐平治の強い希望で二宮尊徳のもとで修行を積み、尊徳四高弟の一人と称されるまでに成長した。その後、遠江国報徳社の社長を務め、長年報徳思想による後進の育成を考えていた岡田は、英語と漢学の素養があった大江孝之らを講師に迎え英学塾の設立を決意、自宅の本邸裏の建物二棟を校舎とした。 学舎は全寮制で、開学当時は二、三十人、多い時は五、六十人の生徒が寄宿舎生活を送った。裕福な家の師弟が多かったが、毎日午前四時に起床して邸内を掃除し、週末は農作業を行うなど、勤労を重視する報徳思想の実践に努めた。主に英語、漢学、報徳学を学び、特に英語の授業では西洋史や経済学などの本をすべて原書で読んだ。
冀北学舎は明治十七年に閉塾、わずか七年の歴史に幕を閉じた。当時の徴兵令では徴兵猶予の特典が公立学校の在籍者にしかなく、入学者の激減が予想されたためだった。卒業生は百五十二人を数え、県内出身者が大部分だったが、茨城や鹿児島などの生徒もいた。後に文部大臣を務めた岡田良平、宮内大臣や枢密院議長を歴任した一木喜徳郎のほか、東京帝大教授山崎覚次郎、衆院議員松本君平など、数多くの人材を輩出した。 「冀北」の名は掛中、掛西の同窓会名などに今も残る。堀内さんは「報徳思想による指導だけでなく、いち早く英語教育を導入するなど、岡田は伝統を尊びながらも卓越した先見性も持っていた。駿馬を育てようとした岡田の強い意志は掛中、掛西の歴史の中に色濃く残っている」と学舎を仰いだ。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。 |
榛原高校100年 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |