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冀北(きほく)学舎の開設から三年後の明治十三年八月、県立掛川中学が開設され、当時佐野城東郡長を兼任していた岡田良一郎さんが初代校長に就任した。 設立当初の入学生は約四十人。郡内各地を視察し、児童の就学率の向上と中等学校への進路拡大の必要性を感じていた岡田さんは、自身が運営していた掛川農学社の建物を提供し、同社で行っていた講演会にならって校内演説会を開催した。掛中は冀北学舎と同様に、設立当初から報徳運動の影響を強く受けていたといえる。
その後、掛中の復活をめぐっては県議会で激しい論戦が繰り広げられ、明治三十三年、ようやく設置が認められた。 校舎建設地は最終的には旧掛川町城内の「お花畑」とされたが、建設地の選定にはいくつかの疑惑が持ち上がった。当初の候補地は正願寺前、六軒町、中西地区の三カ所とされていたが、静岡民友新聞は、中西地区の地権者が、県の調査技師を正願寺には案内せずに、お花畑を推薦したと報じた。正願寺派は、繁華街が近く教育上問題があること、地盤が悪く川のはんらんの危険性があるなど「お花畑」のマイナス面を主張。静岡民友新聞も「掛川の醜事」と題して、地元政界の対立や金銭の授受などの疑惑を連日報道するなど、候補地の決定には最後まで問題が残った。
「水害などの被害は聞いたことがない。経緯はともかく、掛川城の西に校舎を構えたのは正解だったと思う」と話すのは第二十四代校長の鈴木忠夫さん(昭20卒)=掛川市各和=。「お花畑については掛中出身の父から聞いた程度。実際の学校周辺は田んぼが多く、広々として良かった」と藤沢春雄さん(昭4卒)=小笠郡大東町=は当時の風景を懐かしむ。 明治三十四年四月、二年生四十四人、一年生百人を迎えて入学式が、六月には新校舎が落成し、開校式が盛大に挙行された。三十八年には第一期生二十九人が卒業、新生掛中は百年の長い歴史の第一歩を踏み出した。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。 |
榛原高校100年 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |