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 第1部 歩み (12)

大正初期の大ストライキ

 大正元年十一月から翌年一月まで続いた大ストライキは、掛中、掛西高百年の歴史の中で昭和四十年代のアスパック紛争と並ぶ大きな事件だった。学校側の厳しい規則に対し、自由を求める生徒たちの反発が騒動の原因とされる。

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東京にいた卒業生が大正元年から2年にかけてのストの報告を載せた校友会誌第14号=掛川西高
 主役となったのは九回生(大2卒)たち。日ごろ、生徒監・塙福寿教諭の指導は厳しすぎると生徒の不満がたまっていた。そのためか二学期臨時試験の三年英語問題が難しすぎるとして全員が白紙答案を出す。学校側は首謀者の生徒一人を退学処分、五人に謹慎を命じた。「過酷処分の責任は塙教諭にあり」と四、五年生が同情。十一月二十八日に同盟休校に突入した。

 静岡民友新聞は連日のように「掛中同盟休校事件」を報道した。ストは十二月五日に和解が成立したが、五人の退学処分が出たため、再びもめた。十二月末に二回目のストに入り、生徒は自宅にこもったり、掛川市板沢の陣馬峠にたむろしたりして事態の成り行きを見守ったという。

 新聞報道でこの騒動を知った東京在住の卒業生らが掛川に駆け付けて、仲裁に東奔西走。一月初旬に平常通り授業が始まった。当時の校長が更迭されたほか、塙教諭は病気のため欠勤したが、後に復帰したとされる。母校の大騒動収拾に活躍したのが杉本良(明39卒)、河井昇三郎(明41卒)、元建設、労働大臣の戸塚九一郎(明42卒)ら。「母校存続の危機」と立ち上がった。  

自由を求め生徒が反発

 掛中掛西高百年史編集部会長で、当時の静岡民友新聞や校友会誌で同盟休校事件を調べた松井哲さん(昭20卒)は「あのころは掛中だけでなく静中、沼中などでもストをしていた。はやり病みたいなもので、他校の動きを伝え聞いていたのではないか」と推測する。

 また、松井さんは「当時は大正デモクラシーの走り。政治的な動きや社会的な風潮に感化されたとも考えられる。県内でストライキを起こしたのは中学だけ。農工商関連の学校では動きがなかった」ともいう。

 大正元年から六、七年にかけて県内の中学では、どこかでストをしていた状況。掛中でも二、三回小さなストが行われた。掛中掛西高百年史編集部会事務局の鈴木正司掛川西高社会科教諭(昭39卒)は「大正五年にもストが行われたようだが、資料がないのでどういう状況だったか分からない。大正元年から二年にかけてのストも校友会誌に出てくる記述が学校の唯一の記録」と話している。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


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