<15>

 第2部 スポーツ 文化 (1)

名門野球部の黎明期

 掛川中、掛川西高に流れる質実剛健、文武両道の気風。先輩後輩に連綿と築かれてきた伝統と精神は、スポーツをはじめさまざまな分野で逸材を輩出し、その活躍を今に伝える。第二部ではクラブ活動や、後に文化人として当世第一線を歩む同窓生の足跡をたどり、鍛錬と努力の日々を振り返る。最初に紹介するのは野球部。昭和十三年に県西部から初めて甲子園の土を踏んだのを皮切りに、以後春夏合わせて八回全国大会に出場した。県内屈指の名門野球部の歩みをつづる。

kakegawa
野球部史編さん作業まっただ中のOB会長松浦さんは、100年の重みを振り返る=掛川市掛川
 野球部創部の明確な記録は残っていない。が、同校野球部OB会長を務める松浦博三さん(昭24卒)=掛川市掛川=によると、学校創立から間もない明治三十九年に発行された校友会誌第一号に、予算計上された運動部として野球部が記されているという。野球部は学校創立とほぼ同じ百年前に作られたとみていいだろう。

 以来、野球部の門をくぐった同窓生は千人を下らないとみられる。昭和三十九年夏の甲子園出場の時には当時の岡田嘉須雄校長(大12卒)=故人=の肝いりでOB会が発足し、物心両面で現役のサポートに徹してきた。松浦さんは「OBの役割はそのチームが強くとも弱くとも、同じ釜の飯を食った仲間として支え続けること」という。

 さて、創部当初の記録に乏しい掛中野球部だが、大正時代後半から次第に実力をつけてきたと伝えられている。その背景には、当時の少年野球の隆盛がある。全国少年野球大会では、掛川尋常高等小学校(現掛川一小)が大正十二、十三年と連続準優勝、十四年には優勝という輝かしい戦績を残した。それまでめぼしい記録のなかった掛川中も、昭和二年の県大会で決勝戦進出の健闘を見せている。

強豪の土壌を耕す小宮監督

 しかし当時は島田商、静岡中、静岡商の三校が圧倒的な強さを誇った時代。少年野球で実力を培っても、愛知県の学校に引き抜かれたり、時代的な背景もあって中学に進学する選手は限られていた。その掛川中を一から鍛え上げ「遠州に掛中あり」と県内野球界に声高に存在をアピールしたのは、小宮一夫監督=のちに県高校野球連盟初代会長を歴任、故人=。東大野球部の選手時代、当時の多木悦造校長=故人=に懇願され、昭和八年ごろから同十三年の間、監督、部長として野球部の面倒をみた。

 松浦さんは「百年の野球部史を振り返ってみると、強豪掛中・掛西高の土壌を耕したのはほかならぬ小宮先生」と評す。“小宮野球”が花開いた掛中野球部は昭和十三年、悲願の甲子園出場を果たした。

 【注】カッコ内の卒は卒業年。


榛原高校100年 御殿場高 躍進の百年  静岡新聞へ