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名将小宮一夫監督の厳しい指導により着実に力を付けた掛中野球部は昭和十三年夏、ついに全国中等学校優勝野球大会への切符を手にした。監督就任から六年目。ナインと監督の「精神野球」で勝ち取った甲子園出場だった。 当時は島田商業の全盛期で、掛中は過去四年間の県大会で三回、島商に敗れていた。一年生からエースだった村松幸雄主将(昭14卒、故人)をはじめ、掛中ナインは打倒島商を胸に猛練習に明け暮れた。「点を与えなければ勝てる」。小宮監督は猛烈なノックを繰り返し徹底的に守備を鍛えた。県大会の前には、必勝と書いたふんどしと、当時掛中の東側にあった観音堂のお守りを全員に手渡すほどの熱の入れようだった。
八月十三日、甲子園の開会式で、村松は選手を代表して宣誓を行った。時代を反映し「武士道精神」「国家の良材たらん」などの言葉が盛り込まれた文章を力強く読み上げた。掛中は一回戦で、同じく初出場の四国代表坂出商と対戦したが、村松の力投も空しく2対0で敗れた。「試合が終わるのが早く感じられた。甲子園の雰囲気にただただ圧倒された」と馬場邦夫中堅手(昭14卒)=掛川市亀の甲=は甲子園の感想を語る。 この大会を最後に小宮監督は掛中を離れ、掛中はその後長い間甲子園から遠ざかることになる。村松は卒業後プロ野球名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に進み、オールスター戦に出場するなど一軍投手として活躍したが、昭和十九年マリアナ諸島で戦死した。太平洋戦争開戦を間近に控え、掛中も野球部も時代の荒波に巻き込まれていく。 【注】カッコ内の卒は卒業年。 |
榛原高校100年 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |