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 第2部 スポーツ 文化 (2)

ナインと監督の「精神野球」

 名将小宮一夫監督の厳しい指導により着実に力を付けた掛中野球部は昭和十三年夏、ついに全国中等学校優勝野球大会への切符を手にした。監督就任から六年目。ナインと監督の「精神野球」で勝ち取った甲子園出場だった。

 当時は島田商業の全盛期で、掛中は過去四年間の県大会で三回、島商に敗れていた。一年生からエースだった村松幸雄主将(昭14卒、故人)をはじめ、掛中ナインは打倒島商を胸に猛練習に明け暮れた。「点を与えなければ勝てる」。小宮監督は猛烈なノックを繰り返し徹底的に守備を鍛えた。県大会の前には、必勝と書いたふんどしと、当時掛中の東側にあった観音堂のお守りを全員に手渡すほどの熱の入れようだった。

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第24回全国中等学校優勝野球大会に初出場し、開会式に臨む掛中野球部=甲子園球場
 当時は県大会の後に、静岡県と山梨県の上位二チームが出場する山静大会があり、優勝校だけが甲子園に出場できた。掛中は県大会決勝でまたも島商に敗れたが、山静大会では山梨代表の韮崎中を破り、八月五日、静岡球場で行われた決勝で、甲子園出場をかけて島商と再戦した。試合は投手戦となり、0対0のまま延長戦に突入。十回表、二死で打席に立った吉川菊男右翼手(昭15卒)=榛原郡金谷町=の打球は遊撃手の前でイレギュラーし、二塁走者の村松が生還。村松は十回裏の二死三塁のピンチも見事に抑え、この一点を守り切った。「ほとんど神がかり的なヒットだった。今までの苦しい練習がすべて報われたと思った」と吉川は勝利の瞬間を振り返る。野球部OBの菅沼俊介(昭8卒、故人)は手記の中で「胸の震えが止まらず、友人と抱き合って号泣した」と当時の感激をつづっている。夜には掛川駅にがい旋したナインを一目見ようと大勢の住民が集まり、学校まで提灯行列が行われた。

悲願の甲子園出場達成

 八月十三日、甲子園の開会式で、村松は選手を代表して宣誓を行った。時代を反映し「武士道精神」「国家の良材たらん」などの言葉が盛り込まれた文章を力強く読み上げた。掛中は一回戦で、同じく初出場の四国代表坂出商と対戦したが、村松の力投も空しく2対0で敗れた。「試合が終わるのが早く感じられた。甲子園の雰囲気にただただ圧倒された」と馬場邦夫中堅手(昭14卒)=掛川市亀の甲=は甲子園の感想を語る。

 この大会を最後に小宮監督は掛中を離れ、掛中はその後長い間甲子園から遠ざかることになる。村松は卒業後プロ野球名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に進み、オールスター戦に出場するなど一軍投手として活躍したが、昭和十九年マリアナ諸島で戦死した。太平洋戦争開戦を間近に控え、掛中も野球部も時代の荒波に巻き込まれていく。

 【注】カッコ内の卒は卒業年。


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