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 第2部 スポーツ 文化 (3)

”県内最強”の好チーム

 掛中が甲子園に初出場した昭和十三年には国家総動員法が施行、昭和十六年には太平洋戦争が開戦と、掛中にも戦争の波は着実に押し寄せてきていた。学校では軍事教練に加え、農家への勤労奉仕が日常的に行われ、生徒らは射撃訓練や野外行軍、農作業などに従事した。通用門には高さ二メートルの木製の“城壁”が建てられ、壁を乗り越えての登校が生徒らの日課となった。

 当時の野球部はエース荒川宗一(昭20卒)=千葉県=をはじめ、関原伸一郎(昭20卒)、甘蔗明孝(昭20卒、故人)などを擁し、県内最強との呼び声も高い好チームだった。猛練習を重ね「今年こそは甲子園」と意気込んでいたが、十七年七月、全国大会の中止が決定、決行された県大会では一回戦で静岡商に敗れた。

 「このチームは絶対甲子園に行ける」。来年の大会が開催される見通しは立たなかったが、選手らは雪辱を胸に練習に打ち込んだ。大会の廃止が濃厚になった十八年三月、静岡球場で静岡商との練習試合が行われた。これが事実上最後の試合となった。試合の詳細は不明だが、荒川投手の左中間二塁打で掛中がサヨナラ勝ちした、と稲毛森之助監督(故人)の手記に記されている。

戦争が拒んだ甲子園への道

 その後も練習は続けられたというが、待ち続けた大会開催の知らせはついに訪れなかった。「夏の大会がなくなるとは夢にも思わなかった。心にぽっかり穴が空いたようだった」と荒川さん。横山泰治(昭20卒)=掛川市旭ケ丘=も「中学の日々は野球とともにあった。野球をする機会がなくなり、進級せずに卒業する決意をした」と失意の日々を振り返る。一部の部員は肩を買われて当時開催されていた国防競技大会に出場、手りゅう弾投げなどで活躍したという。

 野球部は創部以来初めての休部となり、部員らは上級学校や兵学校など、次々にそれぞれの進路に分かれていった。昭和十九年八月にはついに工場への学徒動員が開始、四、五年生は愛知県名古屋市郊外、三年生は掛川市と静岡市の軍需工場にそれぞれ動員され、終戦までの一年間、住み込みで飛行機のエンジンなどの製造作業に従事した。二十年には掛中の校舎も飛行機の部品工場となった。部員が白球を追ったグラウンドには旋盤の切りくずがうず高く積まれ、しばらく球児の声が戻ることはなかった。

 【注】カッコ内の卒は卒業年。


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