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 第2部 スポーツ 文化 (4)

初の選抜大会出場に沸く

 昭和二十年八月、終戦。各動員先に散らばっていた生徒らが次々に掛中に戻り、工場となっていた校舎で授業が再開された。グラウンドには野球好きの生徒が自然と集まり、野球を楽しむ姿が見られるようになる。

二十一年には正式に野球部が復活。休部中にグラウンドからはバックネットが取り外され、旋盤の切りくずが山積みとなっていた。野球部復活時からのメンバー朝倉康夫さん(昭22卒)=榛原郡金谷町=は「最初の仕事はグラウンド整備だった。バットやグローブなども満足にそろわず、ほとんどOBから寄付してもらった」と当時を振り返る。

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 春の選抜で戦後初めて甲子園に出場、掛西ナインの健闘ぶりにスタンドから惜しみない拍手が送られた=甲子園球場
 食糧難の時代、選手は空腹に耐えながら、夏の大会を目指して練習に励んだ。当時東大のエースだった山崎諭(昭14卒、故人)らも熱心に指導を行った。戦後初の県大会で掛中は快進撃を続けたが、決勝とその後の山静大会では沼津中に惜しくも敗れた。遊撃手の福井弘さん(昭22卒)=掛川市葛川=は「甲子園には行けなかったが、中学生活の最後に精いっぱい野球ができて本当に良かった」と戦争とともにあった中学時代を回顧する。

 学制の変更で掛川西高となってからしばらくの間、野球部は雌伏の時を迎える。昭和三十二年夏の大会では戦後初めて県大会制覇を成し遂げたが、山静大会で清水東に敗れた。ついに全国大会出場を果たしたのは、昭和三十六年の春の選抜大会だった。

あまりに高い1回戦の壁

 三十五年秋、浜松商とともに出場した東海四県大会で、掛西は愛知県の強豪東邦、中京商と相次いで対戦。チームワークで勝負する全員野球で優勝候補東邦を破ったことはナインに大きな自信を与えた。決勝で中京商に敗れたが全国大会出場が決定、昭和十三年以来二度目、選抜では初の全国大会出場の快挙に掛西は大きく沸き返った。

 甲子園一回戦の相手は前年度準優勝校の米子東。スタンドには創部間もないブラスバンド部をはじめ、学校から大応援団が駆け付けた。一点を争う緊迫した展開の好試合となったが、加藤一司投手(昭38卒)=掛川市仁藤=の力投空しく、2対1で惜敗した。加藤さんは「試合に悔いはないが、甲子園で校歌を歌いたかった。出場回数の少ない学校にとって一回戦は関所のようなもの」と甲子園の厳しさを実感を込めて語る。

 甲子園で初戦突破―。あまりに難しいこの新たな目標を、掛西はわずか三年後の昭和三十九年、夏の甲子園で達成することになる。

 【注】カッコ内の卒は卒業年。


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