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 第2部 スポーツ 文化 (6)

天理高を破り初のベスト8

 「おまえたちを甲子園に連れていく。やる気のない者は去れ」。昭和四十九年夏、1回戦で静岡学園高に敗れた日のミーティング。知将と呼ばれた中道充彦監督のいつにない厳しい声が飛んだ。三十九年夏の華々しい活躍から十年、掛西高は古豪として名を連ねながら、甲子園から遠のく日々が続いていた。試合に負けたその日から練習は再開された。

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 昭和50年4月2日、春の選抜2回戦。対天理戦ゲームセットの瞬間。ベスト8進出に抱き合って喜ぶナイン=甲子園球場
 その秋の大会。西部大会優勝、県大会で準優勝し、東海大会へ。東海大会の準決勝では強豪中京高にサヨナラ負けしたものの、静岡商とともに選抜大会行きの切符を手にした。掛西にとっては実に十四年ぶり二回目の選抜出場となった。

 この選抜大会で掛西は百年の野球部史最高のベスト8進出という成績を残す。知名度、実力ともに全国区の奈良・天理高に勝った2回戦を、当時中堅手の斉藤武さん(昭51卒)=掛川市中町=は「最も印象深い試合。今振り返ってもあっという間の試合だった」と話す。中道さん=御殿場市在住=は「恵まれた体格の選手がいたわけではなかった。勝因はまさにチームワーク。主将の松本伸彦捕手を軸によくまとまったチームだった」と振り返る。

チームワークの全員野球

 先攻は掛西、高熱をおして登板した伊藤伸彦投手が好投し、七回まで天理を無失点に押さえた。5点先取で迎えた八回裏、天理が反撃ののろしを上げ、一挙に同点に追い付かれた。当時の野球部長清水俊郎さん(昭26卒)=掛川市杉谷=は「このとき甲子園の怖さを知った。それまで全く聞こえなかった天理側の応援が、一気にベンチに届いてきた。耳をふさぎたい気持ちだった」。

 そして迎えた最終回の攻撃。二死で走者安間二塁の場面、二番打者増田の遊ゴロを相手遊撃手が一塁へ悪送球し、安間が本塁に駆け込み一点を獲得。さらに中村の四球と松本、斉藤の連打でたたみかけて三点を追加し、試合を決めた。三塁側アルプススタンドに陣取った千五百人の応援団も感激に酔った。

 投手だった伊藤さん(昭51卒)=浅羽町湊=は「今でも思い出す中道監督の言葉は、For the team」、松本さん(同)=掛川市鳥居町=は「監督は戦術を日ごろからよく選手に話していた。自分の仕事は何か選手自身がちゃんと理解できていたからこそ、勝ちをつかむことができたのではないか」と指摘する。

 掛西は五十二年夏にも甲子園出場、五十四年春には大石直弘投手が阪急にプロ入りを果たした。五十年代前半、名実ともに西部の雄として注目を集めた。

 【注】カッコ内の卒は卒業年。


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