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掛中水泳部は明治三十九年の創部。学校にプールが完成するまでは部員たちは浜名湖で鍛えられた。古式泳法「神伝流」の形を練習し、遠泳にも力を入れた。 後に官僚から政界へ進み、吉田内閣で建設、労働大臣を歴任した戸塚九一郎(明42卒)の指導で、体位向上のため、一年生全員の宿泊訓練も行われた。
掛中に待望の五十メートルプールが誕生したのは大正十五年八月だ。全校挙げてプール建設に取り組み、父母からも寄付を集めた。掛川市助役、県議を務めた戸塚宏(昭12卒)の父である戸塚廉平(明39卒)は当時、母校の英語教師だった。 鵜藤に次ぐオリンピック選手として期待された加茂(神谷)五郎作(昭16卒)は「廉平先生が本腰を入れて水泳部をつくった」と戸塚の功績をたたえる。戸塚教諭や、母校に戻り自宅を開放して合宿を行った松本コーチらが水泳部の育成に全力を注いだ時代だった。
そういう土壌の中でオリンピック選手、鵜藤は育っていった。鵜藤は水泳で掛中からただ一人出たオリンピック選手だ。「前畑、頑張れ」という放送で有名なベルリンオリンピック(一九三六年)。前畑秀子は国民の期待にこたえ、女子二百メートル平泳ぎで堂々と優勝した。この大会で鵜藤は自由形四百メートルで二位、千五百メートルで三位に入賞している。 鵜藤は立教大に進学した。掛中三年のころから大会で優勝するなど活躍し始めたが、素質が開花したのは大学に入ってから。わずか二年足らずで目覚ましい進境ぶり。一気にオリンピック出場を果たした。 「私の体力は中学時代、たくさん泳いで、できていたのかもしれません」と、鵜藤は掛川西高が平成五年に発行した「鍛えよう若き日を」の中で述懐している。大東町(現・佐束)から自転車で通学していた鵜藤は自転車の上で良く眠り、人力車と正面衝突したこと、プールの横や実家の台所入り口で眠ってしまったことなどを挙げ、「いつも全力で泳いで疲れていたようだった」と振り返る。 昭和十年ごろは早大に進んだ木佐森駿雄(昭12卒)、日大に進んだ鷲山英教(同)、中央大に進学した中野憲一郎(同)、戦死した荒井通雄(昭13卒)ら精鋭がそろっていた。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。文中、敬称略。 |
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