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ベルリンオリンピック水泳自由形で入賞し、ポールに日章旗を掲げた鵜藤俊平(昭11卒)の恩師ともいえる松本喜一(大7卒)。松本は鵜藤に対する学校側の待遇に不満を抱き、鵜藤が立教大に進学すると、間もなくコーチをやめた。 鵜藤に次ぐオリンピック選手として将来を期待されたのが加茂(神谷)五郎作(昭16卒)だった。昭和十五年に開催される予定の東京オリンピック出場を目指して強化合宿に明け暮れた。ところが、日中戦争が激化し、オリンピック開催は幻と消えた。
加茂は掛中で最初は柔道部に入った。校内の水泳大会で好記録を出したため、水泳部顧問の山田雄教諭に「どうしても入部してくれ」と懇願され入部した。
三年生の県大会の前日、加茂は夕食後、腹痛を起こした。熱が四十度も出た。急性盲腸炎と診断され、注射を打って患部を氷で冷やした。応援に駆け付けた多木悦三校長は加茂の腹をさすって懸命に看護。加茂は「感謝、感激した」と今でも恐縮している。 日体大に進学した加茂は出兵した後、昭和二十二年に母校の掛中に体操教師として戻ってきた。昭和四十三年、二俣高定時制教頭になるまでの二十一年間のうち、六年間野球部監督を務めた以外は、水泳部で後継者の育成に力を注いだ。 昭和三十三、三十四年ごろ掛西水泳部は戦後の一つのピークを迎える。平泳ぎの木村智彦(昭35卒)、自由形の長谷川(藤原)秀雄(昭36卒)、バタフライの曽我尚志(同)らはいずれも全国レベルの選手たちだった。国体にも出場した平泳ぎの柴田(岩井)一枝(昭39卒)は、初の女性選手で「紅一点」として注目を集めた。 長谷川は「当時はとにかくしごかれた。野球はボールがくるまで息抜きできるが、水泳はそうはいかない。四月後半のプールは水温が低く冷たさとの戦い。すぐ近くの五右衛門ぶろに飛び込んでは体を温めて、また泳いだ」と振り返る。また、「先輩にはよく面倒をみてもらった。後輩を育てるのが使命という伝統があった」ともいう。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。文中、敬称略。 |
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