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「あの練習の日々がなかったら、世界チャンピオンにはなれなかった」。後にユーバー杯(女子世界選手権)を三回制した中山(旧姓高木)紀子(昭37卒)=横浜市=は、バドミントン部で過ごした日々を昨日のことのように覚えている。「文字通りバドミントンのとりこになった三年間。掛西を選んで良かった」 バドミントン部の創設は昭和二十九年。最初は同好会だったが、顧問を務めた藤江稔(69)=島田市岸町=の熱心な指導の下、翌年には早くもインターハイに出場。部に昇格してからも毎年国体やインターハイに出場し、新進の強豪チームとして知られるようになる。藤江は「しばらくは備品がそろわず、羽根が抜けたシャトルを何度も直して使った」と当時を振り返る。 「インターハイに出たくて」中山が入部したのは昭和三十四年。ラケットを握るのも初めてだったが、抜群の運動神経に加えて、飲み込みが早く努力を怠らない中山の姿に「全国を制する選手になると直感した」(藤江)。三十五年、中山はインターハイに出場、シングルスで四位入賞を果たし、掛西バドミントン部の名を一躍全国に知らしめた。 今年こそは全国優勝、と練習に練習を重ねて臨んだ翌年の県予選。中山は天野博江(昭37卒)=岐阜市=とダブルスを組んだが、練習で痛めた手首は準決勝を前にすでに限界に達していた。「棄権した方がいい」。あきらめかけていた中山と藤江に、天野は「私が全部拾うから」と出場を促し、中山はラケットを手に縛って出場。接戦の末、天野の大活躍で見事に勝利を収めた。
結局決勝は棄権し、シングルスの出場もあきらめ、インターハイへの夢は断たれたが、十月の国体では見事全国二位に入賞。「攻めの中山と拾う天野。二人ともひたむきで最高のコンビだった。あれほどのコンビは後にも先にもない」と藤江。天野も「その後のバドミントン生活の基本はすべて高校時代にある」と言い切る。 卒業後、二人は日本女子体育短大(現・日本女子体育大)に進み、インカレ、全日本選手権で優勝。ユーバー杯や全英選手権でも優勝するなど、世界を代表するプレーヤーとして活躍した。 同部は三十八年に国体で五位入賞、三十九年には粂田(野末)綾子(昭40卒)がシングルス、粂田・服部(鈴木)恒子(昭40卒)ペアがダブルスでインターハイに出場し、それぞれ準決勝に進出したほか、掛西で行われた東海四県大会でも優勝した。四十年に藤江が掛西を去った後も、インターハイや国体にたびたび出場を決めるなど、創部以来の強豪校の伝統は着実に受け継がれている。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。 |
榛原高校100年 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |