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第1章 OBたちの思い(4)

(2002年10月31日掲載)
まだ終わらぬ"恩返し"
内河 恵一さん

恩返しのため、弁護士になったという内河さん。事務所では若い後輩が多く働く=名古屋市中区
 弁護士は八番目の職業。「貧乏じゃなかったら弁護士にならなかっただろうね」と名古屋市に事務所を持つ内河恵一(昭33卒、名古屋市)は振り返る。

 中学時代、そろばんが得意で浜松商業高を希望したが、経済的な理由で断念した。三ケ日中学の図書館で働きながら通った高校の夜間部は人数が少なく、農繁期には一人になることも。勉強に集中できない環境が「大学に行きたい」と自ら勉強する意志につながった。

 だが、母親の病気で勉強を断念。高校に校務員として就職した。働きながら猛勉強し、二年目に中央大法学部二部に合格した。上京時には、本が買えず、立ち読みで勉強するために通った本屋の主人がせんべつに一万円くれた。当時の月給が七千円。かなりの大金だ。

 大学時代は、アメリカ人宣教師団体の事務所に勤務。そろばんの腕を生かしながら、上司やその家族から英語を学んだ。

 二十六歳の時、「多くの人に助けられてきた。この恩をどこかで返したい」と考え、弁護士を志した。働きながら独学で勉強し、二十八歳で司法試験に合格。研修には故郷に近い場所を―と名古屋市を選んだ。その後、四日市や名古屋新幹線などの公害訴訟を住民側で闘い、外国人法律相談窓口も開設した。

 「人の好意は150%受けろ。それを返そうという思いが自分を変えていく」と後進に説く。多くの人に支えられ、人生の基盤をつくってくれた故郷への“恩返し”はまだ終わりそうにない。

 【校史メモ】大正から昭和に変わり、服装に洋風が普及したのに伴い昭和四年、実科高等女学校にセーラー服の制服が採用され、当時の母親を驚かせた。農業教育の充実のため、鶏舎や温室が増築され、動物や園芸に親しむ教育が行われた。同十一年、自彊学校が一部独立校舎の実科高女と合わせて西小校舎内の一部を間借りし、翌年四月、独立の実業学校として組織変更した。職員組織や財政、施設設備などの面から同十五年、実業学校女子部が設置され、翌年、実科高女はその役割を終えた。

(文中敬称略、題字「自彊不息=じきょうやまず=」は後援会長の鈴木浩太郎三ケ日町長)
(水、木曜日に掲載します)


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