<13>

第2章 部活動と名物教師(3)

(2002年12月4日掲載)
OBの支え 強さの一因
ボート部

昭和44年に初のインターハイ出場を果たした選手たち  
 「トラックの荷台から降ろされたボートのあまりの大きさに驚いたのを今でも覚えている。貸しボートをイメージしていたからね」。ボート部一期生の永田秋雄=昭43卒、旧姓堤=は昭和四十一年三月、高校に初めてボートが届いた日のことをこう振り返る。

 その前年の四月、新任教師として三ケ日高に赴任した行司伸吾=浜松市=の呼び掛けに六人の一年生が集まり、夏からボート部の活動が始まった。永田は「半年間は筋力トレーニングばかり。船が来て湖に出るようになり、楽しくなった」と話す。

 四十二年、学校から正式に部活動としての認可が下りた。その年入部した河合幸夫=昭45卒=は「高校生活の中心はボート。学校を休んでも部活には行ってましたね」と笑う。河合たちは三年時に、初のインターハイ出場も果たす。

 猪鼻湖という恵まれた環境の中、着実に力をつけたボート部はその後、毎年のように全国の舞台を狙えるチーム力を身につける。卒業生はOB会「いのはな会」を結成し、後輩たちへの指導や試合会場への送迎を買って出た。「OBの支えはうれしかったですね」と言うのは、女子一期生の河合茂子=昭50卒、旧姓大野=。現役とOBが一体となって取り組む伝統が、強さの一因となっていった。

 しかし、平成に入って部員数は徐々に減少。存続を願ったOBたちの願いも実らず、平成八年度を最後にボート部は活動休止に。生徒たちの思い出が詰まったボートは他校に渡り、今、町民グラウンドわきに残る艇庫だけが、当時をしのばせる。

 【校史メモ】戦後の混乱が落ち着いてくると、高校進学希望者が増加した。このため、昭和二十五年度から普通科定員を百人募集とし、文理・商業・家庭の三コースが編成された。  普通科職員の充実と農業施設の拡充も不可欠となった。昭和二十四年には県外から二教諭を普通科に招いたほか、翌年には町やPTA、同窓会の支援で農具舎や畜舎が相次いで建設されるなど、教育環境の整備は急速に進んだ。

(文中敬称略、題字「自彊不息=じきょうやまず=」は後援会長の鈴木浩太郎三ケ日町長)
(水、木曜日に掲載します)


静岡新聞へ