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第2章 部活動と名物教師(5)

(2002年12月11日掲載)
かき氷売って資金集め
野球部

硬式野球部として活動を始めた昭和23年度の部員たち  
 実業学校から県立移管した昭和二十三年の五月、軟式野球部長の竹内玄三=細江町=のもとに二人の部員が訪れた。田嶋小八=昭24卒=と尾藤昇=同、故人=。二人は竹内に「硬式がやりたい。草薙球場で試合がしたい」と直訴。熱意に押された竹内は、校長の阿部泰一郎=故人=に働き掛けて許可を受ける。硬式野球部の歴史はこうして始まった。

 硬式移行が認められたものの、年度途中ということもあり、予算は若干の上積み程度。用具をそろえるため、部員たちは祭り会場でかき氷などを売って資金を集めた。満足なグラウンドもなく、イレギュラーするボールを顔にぶつけることもしばしば。外山允彦=昭26卒=は「破れたボールを自分たちで縫うこともありました」と懐かしむ。

 夏の県大会では初出場から五年目の昭和二十七年、悲願の一回戦突破を果たす。以降、部は次第に力を付けていく。三十六年は一気に四回戦まで進み、“三ケ日旋風”で大会を沸かせた。

 昭和五十年代には三ケ日中が全国制覇を成し遂げるなど好選手が多く、地域の野球熱も高まった。浜松工を四度、甲子園に導いている内山秀利=浜松市=は五十八年から平成元年まで三ケ日高の監督を務めた。内山は「練習試合でも地元の人たちが大勢見に来ました。地域ぐるみで応援してもらっている印象を受けました」と振り返る。

 現在は一、二年生合わせて十一人の部員が、練習に励む。球友会(OB会)会長の山口喜見=昭45卒=は「野球部は地元にとって期待の星。部員は少ないが、目標に向かって頑張ってほしい」とエールを送る。

 【校史メモ】地域産業とのつながりが生まれるにつれ、獣医師の資格を持つ農業科の畜産担当教師が、町内農家の家畜の病気治療を行う機会が増えた。その後、家畜の繁殖に人工授精が応用され始め、昭和二十六年十月には校内に「家畜人工授精所」が開設される。教師らは専門資格を取得して人工授精の普及に努めた。当初は人工授精に対する理解も少なく、苦労の連続だったという。

(文中敬称略、題字「自彊不息=じきょうやまず=」は後援会長の鈴木浩太郎三ケ日町長)
(水、木曜日に掲載します)


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