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剣道部の活動は三十年代前半に始まるが、斉藤が着任するまで、部は剣道を経験した顧問と巡り合わなかった。引佐剣道連盟会長の清水護=昭36定時制卒=は「最初のころはいわば同好会。生徒も少なく、定時制の自分もよく試合に駆り出されていました」と、当時の様子を語る。 国士舘大で剣道を続けてきた斉藤は、基本動作を徹底的に指導した。「自己流の生徒が多かったですね。ただ、一度基本を覚えると成長は早かった」。伊藤典子=昭48卒、旧姓藤井=は、高校から剣道を始めながらも、三年時には女子として初めてインターハイへ出場。「とにかく厳しい練習でしたが、先生と部員の間には信頼感みたいなものがありました」と懐かしむ。 五十七年から十七年間は、国士舘大で斉藤と同級だった岩本司朗=浜名高=が、部員を鍛えた。六十年以降は男女ともに県内で常に上位を狙う力を付け、六十二年、女子団体で念願のインターハイへ出場する。主将だった大野幸子=昭63卒、旧姓西尾=は「開会式の入場行進は今でもよく覚えています。先生と仲間、みんなで勝ち取った大会。一生忘れないでしょうね」と胸を張る。 これまでに剣道部を巣立ったOBは約三百五十人。OB会の会長も務める清水は「斉藤、岩本の両先生以外にも、多くの教師が剣道部に尽くしてくれました。部員たちは技術以外にも、たくさんのことを学んだと思います」と、指導者たちに感謝の言葉を贈る。 【校史メモ】家畜人工授精所に続き、昭和三十一年春、今度は「付属家畜病院」が校内に開設される。大きな看板が掲げられた農業クラブ会館横の小部屋を拠点に、教師や生徒が町内の家畜の診療に飛び回った。周辺市町村にも獣医が少なかった時代。生徒たちは湖西方面まで診療に出向くことも多く、実践の中で知識を身につけていった。
(文中敬称略、題字「自彊不息=じきょうやまず=」は後援会長の鈴木浩太郎三ケ日町長)
(水、木曜日に掲載します)
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