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日本が高度経済成長への階段を一気に駆け上がった昭和三十年代。農業も大増産時代に突入し変化の波は三ケ日にも及んだ。戦時中に米や麦を生産していた畑が次々とミカン畑に復活。柑橘科誕生には地域からも期待が寄せられた。 同二十五年から勤務した小野は当時の町長石原茂登男(故人)と何度も県庁に足を運び、設置を訴えた。県教委は当初、「作物の名前を科名にするなんて」と冷ややかな反応だったが、小野は「特色ある学校づくりのために、名前は譲れない」と引かなかった。 三年越しの陳情が実り設置認可が下りると、貯蔵庫や実験温室が次々に建てられた。当初は県外からも入学希望が相次ぐ人気ぶり。週に三日は本校舎を離れ、実習場に隣接した研修所で授業が行われた。一期生の石原嘉一(昭41卒)は「ほろの付いたトラックの荷台に乗り実習場へ向かったのが懐かしい」と話す。 しかし、同四十年代後半になると生徒たちの普通科志向が高まり、全国的に農業系の専門学科は苦しい立場に。柑橘科は同四十七年に閉科となる。小野は「特徴ある学校運営が求められる今だからこそ、柑橘科のような学科がなくなってしまったのは残念」という。 【校史メモ】農業教育の環境充実は、農業クラブの活躍につながる形で成果を見せ始めた。全国レベルで好成績を収めたクラブは地元から大きな支援を受けた。また、昭和三十一年には地域社会に貢献したとして、クラブの活動が県郷土をよくする会から表彰された。
(文中敬称略、題字「自彊不息=じきょうやまず=」は後援会長の鈴木浩太郎三ケ日町長)
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