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昨年五月、深沢儀一(昭20卒)は、七十二歳の高齢ながら二度目の富士宮農協組合長に選ばれた。「農家の資産運用は拡大の一途だが専業農家はわずか百戸。時代の流れに合った農協の役割を考えなければならない時期が来ている」。深沢は金融や保障、不動産を含めた農協の安定経営に並々ならぬ決意で取り組む。
富士宮農協の前身は市農業会。昭和十九年の設立委員には佐野政治(明36卒、旧姓石川)稲葉玄吾(明44卒)大石健蔵(大4卒、旧姓深沢)らが名を連ねた。戦後の二十三年、民主的な農協へと衣替え、四十年には市内九農協が合併し、今の組織となった。 芦川輝光(昭27卒)は平成三年、富士川町農協(現するが路農協)の専務理事に就任し、平成五年五月から一期三年、組合長を務めた。「合併問題には本当に苦労した。平成四年に由比と蒲原の農協が合併したが、富士川町はほとんどが両者との合併に反対。合併の意義を納得してもらうのに時間がかかった」。するが路農協に富士川町が加わったのは平成十年。芦川は組合員の意思統一に心を砕いた。
組合長時代、ことしオープンした東名富士川サービスエリア「富士川楽座」の設立計画に参画し、農作物の直売スペースを設けるよう訴えた。芦川は「町特産のミカンは昭和四十年代後半から衰退。専業農家も減り、市場のシステムも変わった」と農業形態の変化を強調し、直売の強化を農家が生き抜く道の一つと重要視する。富士川楽座では地場物のミカンやキウイ、シイタケなどが売られ、観光客らに好評を得ている。 組合運営の一線は退いた芦川だが、農協の花木(かぼく)部会長、町農業委員の重責を担う。ミカンとキウイのほか、観賞用のユーカリや白く真ん丸の花が咲くスノーボールなどを栽培する。 宮沢賢次(昭32卒)は富士開拓農協の組合長。十歳のとき家族とともに中国大陸から引き上げ、朝霧に入植。開拓農家で育った。朝霧高原を魅力ある酪農地にと、組合員と力を合わせ直売所の経営、有機野菜の栽培振興、牧草地で育てる放牧豚の商品化などに力を注ぐ。「将来は地域の農業の歴史が分かる開拓歴史館のような施設も造りたい」と夢見る。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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