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富士宮農高は明治三十三年六月四日、富士郡立富士農林学校として産声を上げた。開校の立役者は、初代の大宮町長土屋勝太郎(故人)。明治二十四年に設立された富士郡内五カ所の農事講習所が明治三十年、経営難から廃校になると、富士郡立農林学校の設置を熱望した。
だが土屋はひるまなかった。「大宮町はすべての校地を無償提供する」との約束が決め手となり、郡内全町村一致で大宮町への設置が決まった。 大宮町源道寺(富士宮市弓沢町の現校地)で進めていた校舎建設が間に合わず、同町字稲荷林(現三園平)の仮校舎でスタートを切る。一期生三十四人、教師は三人だった。
土屋は開校式のあいさつで、「潤井川流域の稲作技術の改善、北部山間への養蚕の普及、南部台地に茶を栽培し輸出する、富士山ろくの草原に植林を行う」を富士地区の農業の課題にあげ、「これらの進歩改善を挙げて本校に学ぶ生徒諸君に託する」と結んだ。 一年後の三十四年九月十二日、源道寺新校舎へ移転する。今でこそ、校舎周辺には市役所が建ち、国道139号や西富士道路にも程近いひらけた場所になったが、当時は見渡す限り田んぼと畑ばかりで民家も数えるほどしかなかった。通学困難な生徒のために明治三十五年には寄宿舎が整備された。このころ植えられたというヒノキは、今も校舎に挟まれるようにして中庭に立っている。 大正七年四月、富士郡立富士農林学校は文部省令を受けて乙種から甲種へ昇格し、富士郡立富士農学校と改称。入学資格は十二歳以上から十四歳以上の男子と変更になった。 翌八年四月には県立大宮農学校と改称、名実ともに郡、県内の農業人を育てる学びやとなった。県立の農学校はそれまで、中泉農学校(現磐田農高)のみ。大宮農学校は、志太郡立農学校(現藤枝北高)と浜名郡立蚕業学校(現農業経営高)とともに二番目に認可を受けた先駆けの県立農学校だった。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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