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 「私の思い出」(3) 朝鮮学校

「アイゴー」を背に離任

 長兄は、富士中(富士高)一回の卒業生で、芝富村で一人。三男の私は、富士中へ受験させてくれませんでしたが、兄が就職して送金してくれるので、大農(大宮農学校)へ通学しました。

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田子浦小校長時代の芦沢光義さん
 昭和十一年の卒業後、浜田襄太郎校長先生(第五代)に呼ばれ、大農の助手を一年務めた。その後、合格者の一割は授業料免除になる旧朝鮮の官立師範学校を勧められ、幸運の第一歩を踏みだしました。

 最初の赴任先は、小規模の日本人学校。校長先生が一、三、五年の受持。私が二、四、六年の受持兼教頭兼事務職でした。父親は九州方面からのインテリばかり。母親が毎日授業参観にご来校。新米教員は四苦八苦の授業でした。わずか一年で教職の尊さを悟りました。

 長い冬休みに校長先生は郷里秋田へ里帰り。新年拝賀式は式辞、教育勅語、ピアノで君が代斉唱、勅語奉答歌、終わりの訓話。白手袋を着けたり解いたりと満二十歳の青二才教員には悪戦苦闘の冬休みでした。

 次の赴任校は、朝鮮学校で、日本人は校長先生と私だけ。六年生の担任だったが、義務制ではないので十二歳の児童もいるし、二十五、六歳の青年男女も居る。家が遠いので、学校所在地に下宿して通学している青年もいて、びっくり。

 その下宿生が、私が自炊生活をしている教員住宅に毎晩遊びに来る。帰れとも言えないので、彼らは朝鮮語、私は日本語の教え合いをしたことなど懐かしい。

 創氏改名の布令で、校門から入ったら、日本語で話せ。朝鮮語で話したら、罰を与える、という学校もあった。氏名も日本語に変えろと言うことだったが、田舎では、服従しない家庭が多かった。姓名が難しくて覚え難かったが、私が覚えているのは、安在赫という男性一人だけです。

 この思い出の多い学校に一年勤めただけで、元山泉町国民学校というという大規模の日本人学校へ転勤する辞令が舞い込みました。

 お別れの日が来ました。

 運動場で、別れのあいさつをして六年生の教室へ入ると、全員、顔を机に伏せて、アイゴーアイゴーと泣きわめいているのです。

 こんなにまで私を慕ってくれていたのかと、ついに私もむせび泣きしてしまいました。駅に行くのには一山越えてから、一時間歩かなければなりません。アイゴーアイゴーと泣きながら、私の後をついて山の頂上まで来て分かれました。

 音信不通の国ですから、五十年過ぎた今、一通の手紙も届きません。彼らの多幸を祈るばかりです。

 (元富士市立田子浦小校長 芦沢光義・昭11卒)


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