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 「私の思い出」(4) 在満国民学校

40年ぶり生徒と母校へ

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兆麟小学校の校舎は渡辺さんが赴任したころ、そのままに残る
 大宮農学校から浜松師範大陸科に入学したのは昭和十六年四月だった。大陸科は師範教育のほか乗馬、神事、自動車運転等の教育を受けた。昭和十八年九月に繰り上げ卒業で県庁で赴任辞令「蒲原在満国民学校訓導ニ任ス月俸七拾圓給與」を頂いた。当時は戦争もし烈を極め、満州行きとなると家族、親せき、集落を挙げ、村の氏神様に健康と無事着任を祈念し見送られて渡満の途についた。

 蒲原在満国民学校(現・中国黒竜江省)はハルピン市の蜜峰駅から徒歩三時間、新潟県北蒲原郡の人たちで編成された開拓団の学校で児童は百人程度であった。翌年、ハルピン桃山在満国民学校に転勤、学校は地段街(日本人街)にあり、生徒数千余名で明治四十二年本願寺で創設され歴史は古く、現在は兆麟小学校として重点校となっている。当時、日本人学校は花園、白梅、桜、桃山の国民学校があった。私は四年男子組の担任で四年以上は男女別の学級編成だった。

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約40年ぶりに異国の母校・桃山小(現兆麟小)を訪問した一行。前列左から4番目が渡辺さん=昭和61年、中国黒竜江省
 過日、兆麟小学校を訪問したときの様子を記してみる。訪問したのは、私が担任した二十一人の生徒でハルピン生まれの者が多かった。団長は当時の級長山口君で、次のようなあいさつをした。「四十有余年母校桃山小そしてハルピンを思い続けてきました。桃山小をこの目で確かめられ重点校であることも知り、喜びを強くしています。ハルピンにたどり着き、感無量でただただ感動しているのみです。心を込めてバレーボール、バスケットボールを持参しました。生徒の皆さまに使っていただけば本当にうれしいです。日中友好のため頑張り、母校のことを思い続けています。私たちを教えて下さった渡辺先生も同行されていることをお伝えし、母校の益々の発展を祈念します」。

 これに対し劉校長は「私は児童職員を代表して皆さま方の来校を熱烈歓迎いたします。皆さま方は今日母校に来校され、中日友好の架け橋になることと思います。一九七九年新潟市と姉妹都市となり、萬代小と姉妹校の縁組みもし、手紙や校旗、筆書等の交換をしています。ボールの贈り物、子供たちも喜び身心を鍛え、技を磨いてくれると思います。私たち中日友好のシンボルとしていきます。子供たちの筆書を用意してありますのでどうぞお受け取り下さい。桃山小の同窓生としてとこしえに中日友好の友誼をお願いし、歓迎の言葉とします」。

 翌日はありし日の桃山在満国民学校生活を胸に秘めてハルピン空港に向かい、機上の人となった。

 (元富士宮市立北山中校長渡辺恒男・昭16卒)


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