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 「校 歌」

待望の全校斉唱に感涙

 校歌制定の動きは、大正十年代にまでさかのぼる。十三年、正門わきに時計台が建てられた。当時の生徒はこれを北大の時計台になぞらえて集まり、北大寮歌を合唱する中で、母校の校歌を切望するようになった。

fujinomiya
先輩たちの思いを受け継ぎ、念願の校歌を斉唱して卒業した昭和7年卒生
 大運動場の完成を記念し、昭和二年から東部県立農学校四校の競技会が始まる。四校の選手は親ぼくを深め、その日の終わりには別れの応援歌を歌って三校の生徒を見送った。声を合わせて歌うのが応援歌だけで、校歌がない寂しさも味わった。三百メートルと離れていない大宮女学校(現富士宮東高)から響いてくる女生徒のすがすがしい校歌に、寂しさは募る一方だった。

 昭和五年卒生から、校歌制定のための寄付が始まった。一人五十銭ずつを集め、校長に依頼して卒業していった。

 佐野美好(昭7卒、故人)は昭和六年に三年生になった。級長を務め、下級生からの人望も厚かった佐野は以前から同級生らと「三年生になったら校歌を完成させよう」と誓い合っていた。リーダーシップをとっての本格的な資金集めは田植えが終わった六月から始まった。十月までに在校生の寄付で百二円を集め、卒業生からの寄付金を加えて第五代校長浜田襄太郎に願い出た。浜田は大宮女学校の音楽教師水口広を通して校歌制作を依頼した。

 水口は作詞を熊本県・人吉高等女学校の犬童信蔵に、作曲を神戸・県立第一高等女学校の田中銀之助に頼んでいた。卒業式間近に完成し、歌い方の分からない生徒らのために、水口が足を運んで指導をした。

 指揮棒を振りながら額に汗を浮かべ、熱心に指導する水口。対する生徒も、有り余る元気をぶつけるように大声を張り上げた。不ぞろいな歌声は迫力があった。佐野十三良は「だれのものでもない自分たちの校歌をついに歌えるようになった喜びと誇りで感激はひとしお。今でも、この校歌のことを思うと心が若返ります」と目を細める。

 校歌は、米作りを宿命とされた富士宮の未来を背負って立つ宮農生の心意気が随所に盛り込まれている。市民が存分に食べられる米どころのふるさとを作り、富士より高い理想を持って住み良い町を築いていく、と歌い上げる。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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