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 「校章・制服」

時の流れに変遷重ねる

 銀色に輝く富士山の下、純白の「高」の字を金色の稲穂が支える校章。紫色の地は太陽に輝く大地を、稲穂は日本農業の姿を体現している。

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富士山や稲穂をモチーフにして、昭和23年に制定された校章
 昭和二十三年、県立富士宮農業高校と改称して新制高校になったのを記念し、新しい校章が制定された。全校生徒、教職員から募集した作品の中から選ばれ、図案を作成した当時の数学教師小笠原力雄は「長い歴史に恥じない、立派な生徒に育ってほしい」との願いを込めてデザインした。生徒に大事にしてもらうため、できるだけ高価な良い品質の校章にした。

 校章は校名の変遷とともに姿を変え、四度に渡る変遷を遂げてきた。学帽の帽章は富士郡立農林学校時代の「農林」から富士郡立富士農学校の「富農」へ、さらに県立大宮農学校の「大農」へと改められた。「大農魂」や「大農根性」という言葉はこの時期に定着した。

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和服に替わり、黒の詰め襟と学帽の制服を着て通学した大正8年卒生
 戦時下の昭和十七年、大宮町が合併して富士宮市になり、大宮農学校は富士宮農学校と改称する。校名変更に伴って帽章も「大農」から「宮農」へと変わった。遠藤忠義(昭18卒)は「勉強を犠牲にして勤労奉仕が叫ばれる時代で、感慨を抱いている余裕はなかった。金属が不足して帽章さえも陶器製に変えられた」と当時を振り返る。

 制服が誕生したのは大正七年。それまでのはかま姿の和服から洋服へと移行した。校則にも制帽制服の着用が明記され、生徒は小倉服という黒の詰め襟を着て白線二本を巻いた学帽に「富農」の帽章を付け、短靴をはいて登校した。昭和初年には通学以外でも常に制服の着用が義務付けられた。

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戦時中、生徒はゲートルに編み上げ靴、戦闘帽の制服姿で軍事教練を行った
 戦時色が濃くなると、制服も次第にゲートルを着用して編み上げ靴を履き、戦闘帽をかぶって背のうを背負う姿へと変わっていった。昭和十七年ごろには編み上げ靴さえ手に入らず、通学には地下足袋、服は国防色のカーキ色になった。この姿で食糧増産を担う農家の手伝いに赴いたり、軍事教練を行ったりした。制服の着こなしや礼儀作法に関する先輩の指導は厳しく、怒鳴り声で注意されることも多かった。

 平成九年の制服改定で、長年続いた男子の学ラン姿がなくなった。現在の制服は、紺ブレザーに男子はグレーのチェック柄ズボン、女子は同じ柄のスカート。男子のブルーのシャツや、女子の白い丸襟などが特徴を出している。制服検討委員会の教諭松村隆は「学校の雰囲気を落ち着かせ、高揚させるのに成功した」と効果を語る。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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