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あごひげを長く伸ばした風ぼうから「ひげさん」の愛称で親しまれた元富士宮市長植松義忠(昭7卒、故人)は農業を柱に骨太に生きた。その人生哲学を「ふりかえって一貫していることは、農を一つの大きな手段として自分の人生を支配していこう、そして社会に貢献していこう、ということ」(『わが青春』昭和四十八年、静岡新聞)と記している。
昭和二十一年五月、富士山ろくの帰農者集団をまとめ、大規模開拓を推進する西富士開拓組合連合会を組織し、会長に就いた。資金もない、肥料も農具も不十分。毎日の食糧もままならない。地元民だけでも苦しい状況下、他県が受け入れを拒んだ長野や山梨などの引揚者も快く受け入れ、入植者は五百人を超えた。植松は、開墾費の調達や水源整備などに率先して飛び回り、理想郷「蜜と乳の流れる里」づくりに精力的に取り組んだ。
昭和二十八年に富士根村議に初当選、社会党県議五期を経て昭和四十七年、市長の座に付いた。「人間と自然、土地と水」。掲げる政治哲学にはやはり農本主義が反映され、大規模開発を食い止める「土地を守る運動」を提唱した。 企画調整課長として植松の下で働いた現助役中村伸介(昭30卒)は「仕事ぶりは豪快で決断力があり、自らには厳しい人だった。半面、部下を自宅に招待して自家野菜を振る舞うなど部下思いの気さくな一面もあった」と思い出を話す。 市長選は二回当選。全日本開拓者連盟中央委員、南富士開拓農協組合長などの要職も長年に渡って務めた植松は平成七年十二月、八十一歳で亡くなった。「ひげさん」を慕う人たちや農業関係者などの協力で平成九年、富士宮市粟倉の生家近くの公園に植松の胸像が建てられている。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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