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 人物編(2) 大石健蔵・赤池桓治

養蚕技術の向上に貢献

 富国強兵、殖産興業が叫ばれた明治時代、生糸が日本の主要な輸出品に成長した。全国で養蚕業が盛んになり、富士地区にも「おかいこ」を育てる農家が急増した。県立大宮農学校も養蚕専修別科を設けるなどして技術向上に貢献し、富士地区は「静岡の岡谷」と呼ばれるほどに養蚕業が発展していく。

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赤池桓治さん
 昭和初めに掛け、現富士宮市内には蚕種を売る農家が数軒あり、「種屋」と呼ばれた。カイコガを育てて異種交配し、卵を厚紙(種紙)に産ませて養蚕農家に分けていた。

 大宮町の大石健蔵(大4卒、旧姓深沢、故人)は富士蚕業株式会社(商標・富士社)を起こし、県内から山梨県南部までの広い範囲で蚕種の販売を行った。昭和元年、県蚕業取締所が出した「蚕種製造額番付」では西の大関に位置するなど有数の蚕業家として名をとどろかせた。

 研究熱心なことで知られたのは、二又(富士宮市粟倉)で種屋「誠進館」を営んだ赤池桓治(明45卒、故人)。大正十二年、春蚕飼育法を解説した「實(実)地飼育之友」を記した。

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赤池らが春蚕飼育法を分かりやすく解説した「實地飼育之友」=大正12年
 山梨県富河村の望月貞重との共著で、A5判百二十六ページ。専門的な知識を分かりやすく説き、効率的な経営にも気を配った。赤池らの飼育失敗談が記されているのも目を引く。当時、こういった実践を伴った養蚕総合書はほとんどなく、とても重宝された。

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富士蚕業が西大関にある昭和元年蚕種製造額番付
 発刊に寄せて大宮農学校の養蚕主任前田謙は「赤池桓治君は近時まれにみる篤学の士にして多年蚕糸業に従事し、自ら学理を応用して蚕の飼育にあたり養蚕業者を指導啓発した」と賛辞を贈っている。

 二男の弘次(73)=茨城県取手市=は「余計なことはしゃべらず、毎日毎日仕事に没頭していた。真面目な商売ぶりに、遠くから種を買いに来る人が絶えなかった」と当時を振り返る。

 第二次大戦に伴う輸出封鎖や生産統制などで、日本の養蚕業は落日を見ることになったが、赤池は「孫が大学を卒業するまでは」と昭和四十六年、七十六歳まで蚕を育て続けた。「年老いても自分には厳しく、とにかく仕事ばかりしていました」と共に働いた長男稔正の妻美幸(76)。八十歳になり、家族から隠居を進められるまでカキや梅などの果樹園芸に精を出した。

 赤池は「教育勅語」を座右に置き、昭和五十六年二月、八十六歳で亡くなるまで、「努力」の二文字を忘れなかった。よく口にしたのが「虎(とら)は死して皮を残す。人は死して名を残す」。目先の利益だけにとらわれない、実直な姿がのぞく。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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