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 人物編(4) 福田惣作

ペルーに渡り果樹栽培

 大宮農学校県立移管後初めての卒業生福田惣作(大9卒、故人)=富士市出身=は昭和十年、広大なアンデス台地の開拓に一獲千金を夢見て、妻ますゑ(故人)と共にペルーへの移住を決めた。

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福田惣作さん
 横浜から最新鋭の平洋丸で出港し、荒波に揺られること約三十五日。船にはミカン(興津わせ種)やカキ、ナシなど、研究熱心な福田がペルーの地で育てようと集めた果物の苗木二十種類を持ち込んだ。船中では水やりを欠かさず、未知の地でまく“種”に細心の注意を払った。

 しかし、苗木は米国のサンフランシスコに寄港した際に植物検疫を受け、無残にもそのほとんどを海に捨てられてしまう。旅を共にした福田の弟勝夫(故人)の妻美代子(83)=ペルー在住=は「惣作は苗木を守ろうと船長に必死に頼み込み、ミカンとカキなど四種類の数本を船底の冷蔵庫に隠してもらった。やっとの思いでペルー国内に持ち込むことが出来ました」と振り返る。

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福田さんらの努力で大果樹園に生まれ変わったペルーの砂漠=松木保之助著「思い入れの旅・南米4万5千キロ」(静岡新聞社刊)から
 福田らは数年間、リマ市近郊の農業大臣農場で小作人として勤め、ブドウやナシ、オレンジなどの栽培に携わった後、蓄えた資金で同市近郊ワラルに土地約十五ヘクタールを購入した。その土地は雨が少なく、砂漠状態。土の中の塩分が多く、雑草一本生えていなかった。

 「常識外れの日本人が来て、砂の中に木を植えている。そのうちに逃げて帰るに違いない」と背後から地元民の声。福田は地下水をまいては乾燥させ、塩を浮き上がらせる塩田の仕組みを応用し、土壌改良に没頭した。

 塩分さえ除けば、水はけの良さは果樹栽培に強い味方。苗木はしっかりと根付いてたわわに実を付け、いつしか地元民が福田一家を見る目はせん望のまなざしに変わった。「夜、枝を盗みに来る人が絶えなかった」と美代子。福田の果樹園を中心に、ワラルではミカン栽培農家が続々と増えていった。

 福田はミカンやカキのほかグレープフルーツ、メロンなども栽培した。豆類の栽培が主流だった当時のペルーで果物は貴重品。中でも種のない日本のミカンは市場に持っていくと飛ぶように売れた。

 国家事業で行われたかんがい事業も後押しし、農園はますます規模を拡大していく。昭和二十年代には百ヘクタールの果樹園を持ち、二十万羽のニワトリを飼うペルー有数の大規模農家に成長。ペルー人百家族、三千人以上を雇った。

 昭和六十二年、福田は八十二歳で亡くなり、農園は長男カルロス(55)らが継いだ。平成に入ってからのテロリスト(MRTA)の横行、経済悪化が事業の大きな妨げになっているが、カルロスは養鶏・養豚の拡大など精力的な経営を展開する。

 福田の「開拓精神」は今なお、日系人の誇りとしてたたえられている。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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