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 人物編(5) 石田英雄(上)

農村に溶け込む伝道者

 兵庫県高砂市の郊外、JR曽根駅の南方に小さな教会「曽根教会」が建つ。隣接する付属「子供の園保育園」からは元気な子供たちの声が響いてくる。

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石田英雄さん
 かつては、畑や塩田が広がる戸数約七百ののどかな農村地帯。戦前に自らを耕牧(こうぼく)と呼び、農村文化の向上に取り組んだ牧師石田英雄(大10卒、故人、旧姓佐野)の活動拠点であった。

 昭和三年十月、畑の真ん中に居を構え、掲げた看板は「曽根農村セツルメント」。農村伝道が目的だったが、石田のやり方は単に教会に人を集め、信者を増やすというものではなかった。農民と共に働き、生活に深く溶け込み、キリストを説くとともに町を、人を育てるのが狙いだった。

 石田園江(故人)とは結婚して間もないころ。園江は「私たちは、『日本の農村を動かす』と言いたいほどの強い願いを持って結婚しました」(園江の回顧録『死がへだてるとも』から)と、見ず知らずの土地に飛び込んだ当時の気持ちを、後に振り返っている。

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石田牧師の墓前で思い出を語る。右から菅伍一さん、高谷のぞみさん、曽根教会現牧師高崎裕士さん=兵庫県高砂市
 当時は、セツルメントという単語さえ知らない人ばかり。閉鎖的な農村社会に溶け込むのは容易ではなかった。いぶかしげな目で見られ、「ここは何をするところか」としばしば聞かれた。石田は「強いて難しく定義を下すならば、『ある住民の文化的向上のためにその中に定住すること』とでもいおうか」(昭6、『曽根セツルメント週報8』)と説明している。

 農繁時の託児所や英語や数学などを教える夜学、農業指導など相次いで社会事業を拡大。徐々にセツルメントを訪れる大人たちが増えていった。

 昭和七年、初めて伝道集会に出掛け、後に洗礼を受けた菅伍一(87)は「人を引き付ける素晴らしい魅力があった。自分が一番かわいがられている、と皆が思えるような慈愛に満ちた人だった」と石田の笑顔を思い出す。

 昭和八年には移転、モダンな教会堂が完成した。しかし、外観とは裏腹に中は畳敷きの礼拝堂。石田の長女高谷のぞみ(63)は「近所の人が夜遅くまで車座になって話していたのを、子供心に覚えています」と振り返る。いつしか教会は公民館的な気軽に人々が集う場になり、住民のいぶかりの目は薄くなっていった。

 農業指導にも熱心で、昭和十五年には曽根町北部農業実行組合を設立。トラクター導入やセロリの栽培指導をはじめ、植物油でマーガリンを作ったり、共同精米所を立ち上げたり、と先進的な考えを地元農民と協力して実行に移した。三十代半ばの石田は土に溶け込んで信仰を説き、農村の向上をひたすらに願った。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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