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 人物編(6) 石田英雄(下)

聖書の口語訳に力を注ぐ

 「爪(つめ)の色も変わりつつある。必ずや神を待ちのぞめ」。石田英雄(大10卒、故人、旧姓佐野)は昭和十六年十月三十日、愛用していた聖書の中表紙に絶筆をしたため、間もなく息を引き取った。三十八年の短い生涯であった。

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曽根農村セツルメント創立当時の看板=昭和5年ごろ、「曽根教会50年記念誌」より
 農村と教会は石田の軌跡そのものだった。明治三十六年、富士郡上野村(現富士宮市)の農家の末っ子に生まれ、県立大宮農学校を主席級の成績で卒業。将来を嘱望されて鳥取高等農業学校に進んだ。

 後の早逝につながる結核を患ったのはそのころ。石田は一時期、故郷に戻って養生した。結核が不治の病と言われた当時、周囲の若者が同じ病に倒れ、次々と命を落としていた。石田は沼津市の教会などに足を運び、死とは何か、生とは何か、と自問する日々を過ごし、次第にキリスト教に傾倒していった。

 再び鳥取に戻ると、米国人婦人宣教師ミス・コーの主宰する寄宿寮で、コーの理想とした「キリストの愛の中で共に歩む」生活を体験するなど信心を深め、大正十二年、鳥取教会で受洗した。

 卒業後は指導者として学校に残るようにと熱望されたが、聖書への思いを捨てず、同志社大学文学部神学科へ進んだ。ここで石田は大衆伝道に力を注いだ社会的キリスト教主義の中心人物中島重や賀川豊彦、日本農民組合運動の指導者杉山元治郎らと出会う。

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石田牧師が病床で訳した口語聖書の原稿=高谷のぞみさん所蔵
 農繁時の託児所や英語や数学などを教える夜学、農業指導など相次いで社会事業を拡大。徐々にセツルメントを訪れる大人たちが増えていった。

 同志社三回生のとき、杉山に出会った石田は「杉山氏の話を聞き、感奮するところあり、自分は外国に行っても、牧師をしても、結局は農村へ行くような気がする」と、日記に記している。キリストの信仰に根差して農村社会に仕えたいという思いが募り、聖書研究と並行して「同志社労働者エミッション」の創立(昭2)に尽力。農民と共に生き、共に土に祈る教えの成熟に思いを巡らせた。

 石田の業績として関係者が真っ先に挙げるのが、日本初の農村向け口語聖書の翻訳だ。

 「曽根農村セツルメント」を開いて約十年。既に床にふすことが多くなり、激しいせきに悩まされていた石田は、症状の良いときにショートバイブルと呼ばれる簡略聖書の文語体を優しい言葉に置き換えた。B6版ノート八冊にもわたった訳のゲラ刷りが完成した矢先、石田の命は尽きた。

 戦争の影響で出版には至らなかったが、日本聖書協会による口語聖書が広まったのは昭和二十年代後半から。石田の取り組みは先進的で、高く評価されている。

 土に生き、土に祈り、愛された耕牧は、曽根の町を見渡す高台に眠る。石田を慕った人たちが今でも時折墓を訪れては花を供え、声を掛けていく。

【注】カッコ内は卒業年。


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