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 「名物校長」 

共に汗流し幅広い教育

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浜田襄太郎校長
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勝又善富校長
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増田嘉徳校長
 第五代校長浜田襄太郎(故人)の昭和五年から十二年は、日本が軍国主義への道を歩み始めた時期に重なる。国を支える農業の担い手として、生徒は厳しく鍛えられた。佐野十三良(昭7卒)は「勉強より前に精神の育成。生徒は教師に理想の人間像を求めた」と振り返る。浜田は全校で約百七十人ほどだった生徒を一人ひとり把握し、「大農精神」をたたき込んだ。

 小林敏則(昭12卒)は、日に焼けた顔に眼鏡をかけ、威厳のあった浜田をよく覚えている。「大学を受験すると決めたときに、大丈夫かと声を掛けてくれたのが印象的。きまじめな怖さとは別に、親しみを込めて話し掛けることがあり、意外な一面もあった」と親近感を持つ。

 第十五代勝又善富が校長として赴任した昭和五十年からの八年間は、やる気あふれる生徒が集い、指導力の高い教師陣にも恵まれたた。クラブ活動や大会で次々と優秀な成績を残す「黄金期」だった。

 努力家の生徒を教師たちが熱心に指導し、陸上部の躍進、農業クラブでは全国大会出場が相次ぐなど、宮農を全国的ブランドへと押し上げた。勝又は常に生徒の近くで接し、作業や実習で共に汗を流した。大会前は「結果にかかわらず、集中して打ち込むことがなにより大切だ」と生徒を激励した。生徒会長だった深川誠治(旧姓斉藤、昭52卒)は「勝又校長が生徒の練習場所を回っては、一人ひとりに声をかけていた」と思い出す。

 第二十一代増田嘉徳は教師としてのスタートを宮農で切った。二十二歳の増田は、畜産の授業で動物の内臓を実際に見せて説明するなど斬新(ざんしん)な方法で二十三年間指導した。畜産クラブの泊まり込み実習にも付き合い、生徒も増田の家に上がり込んだ。安藤拓哉(昭45卒)には「熱血で厳しいが、どこかで優しい兄貴のような存在」と映った。二年生で学校農業クラブ会長を務め、意見発表で全国大会に進んだ安藤は、増田の家で泊まり込みの特訓を受けた。

 増田は経営感覚を磨くため簿記や科学的実験を畜産の授業に取り入れた。六十一年には商業的要素を加えた食品流通科の創設に尽力し、食品加工や取引、品質検査など一連の流れを学ぶことのできる学科に育て上げた。

 増田は県教委などを経て平成九年から校長。「生徒が自ら興味のある分野を選択して個性を伸ばし、高等教育への下地を作る理想的な教育環境」を目標に、総合学科の創設に向けての環境整備に余念がない。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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