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昭和三十三年九月二十六日夜。農林省から県土地改良課長に迎えられて間もない遠藤虎松(昭5卒)は激しく鳴り響く電話のベルにはっとした。九百三十人の死者、行方不明者を出した狩野川台風(台風22号)の暴れぶりを告げる第一報だった。
伊豆災害対策本部常任幹事となった遠藤は、知事斎藤寿夫に“英知の結集”を進言し、農林省へ飛んだ。全国の農業土木技術者を復興支援要員として被災地に集めるように要請するためだった。前例のないケースだったにもかかわらず、富山県など十一県から五十七人の技師や技師補が集まり、農地復興に力を注いだ。「農林省時代の同僚たちが『遠藤のためなら』と骨を折ってくれた。うれしかったね」。熱意と人脈は復興の大きなバネになった。 遠藤は大宮農学校を卒業後、岐阜高等農林学校(現岐阜大)で農業土木学を専攻し、滋賀県庁へ入庁。高い能力を買われ、埼玉、和歌山、愛知県を経て昭和二十三年、農林省に移った。本県では、かんがい排水や砂防用のダムにコンクリート工法を導入。農学博士号を持つ実力を生かして県農政に貢献し、県農地部長も務めた。 昭和四十二年にはポスト斎藤県政で揺れた県知事選に無所属で立候補したが、自民党公認の竹山祐太郎に敗れた。その後、富士宮市都市計画審議会長を三期、富士宮農高同窓会「農友会」の会長を十年間務めた。 ことし一月、遠藤は満九十歳を迎えた。富士宮市若の宮町の自宅で窓際のソファに腰掛け、大好きな読書にふける。健康長寿の秘けつは「何でも食べ、心は平静に保つこと。そして色気を忘れないことだね」と明かす。 現役の県職員には、県農林水産部畜産振興室長の望月輝一(昭38卒)らがいる。望月は国内での家畜伝染病「口蹄疫」の発生、乳製品の食中毒問題、長引く不況など悪条件の重なった畜産界を施策で後押しする。 「農畜産業を住民から広く理解される第一次産業にしたい。経済、環境、消費者、世界、さまざまな視点からの振興策が必要」と視野は常に広く置き、前向きな姿勢を忘れない。奮い立たせてくれるのは校歌の一節。『湧玉水の絶え間なく励む我らの意気高し』。時折、ふろの中で高らかに歌い上げ、英気を養う。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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