![]() | <4> |
兵学校は旧水野藩の沼津城内に設けられた。頭取に洋学者西周を任用し、兵術をはじめ英学、仏学、数学など各分野で一流の教授陣をそろえた。他藩から留学生が送り込まれるほど高いレベルの近代的教育機関が沼津に作られたことが、地元での教育や文化振興の機運を高め、沼中設立の一助となった。 芹沢進太(明38卒、故人)は、ボートで狩野川の港橋から清水港に向かい、停泊中の巡洋艦を訪れた。士官に沼中生であることを告げると、「往年、兵学校のあった町だな」と艦内を案内し、ごちそうしてくれたと創立四十周年記念「香陵」に掲載している。在校生の坪田迅吾(昭17修、故人)は、同誌の中で「兵学校を、我々は校祖として考え得るのだ。実に愉快だ。ここにも大きな伝統の誇りがあるのだ」と胸を張った。兵学校があった地で学ぶことを誇りに思い、伝統の源と考えた。 兵学校の設立に尽力したのが江原素六。御料地払い下げなどの士族授産、地元の産業振興とともに教育にも力を注いだ。兵学校の予備教育機関として開校した付属小学校を公立小学校集成舎として再出発させ、明治九年には中学校を設立し校長を務めた。両校とも自由な校風をはぐくみ、質の高い教師陣をそろえた。 素六は沼中設立には直接かかわっていないが、初代校長堤敬太郎を推挙したともいわれ、何度か沼中を訪れ講演した。 明治三十七年に発行された「学友会報」第二号には、素六の講演の内容が紹介されている。素六は沼中を「非常に縁のある学校」と形容した上で、「年少時代をむなしく送らず、熱心にかつ愉快に勉強をおしなさい」と、学問は本来苦しむものではないと諭した。「皆様の運命は今日自分で造らなければなりません」と自らの可能性を決めるのは自分自身だと説き、近代化の息吹を沼中生に吹き込んだ。
(文中敬称略)
|
掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |
引佐高の百年 田方農高の百年 静岡新聞へ |