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第1部 歩み

浜水泳

心身鍛えた「皆泳主義」

海で鍛える伝統行事のひとつ、浜水泳=「沼中東高八十年史」から
 駿河湾は前庭同然。水泳訓練は浜水泳と呼ばれ必須科目だった。

 明治三十四年五月、開校早々に心身鍛錬を目的に学友会が発足した。先頭を切って活動を始めたのが夏季水泳部。水泳部には全員が参加し、七月には全校生徒が水泳を行っている。当初は狩野川の湊橋(御成橋)上流を練習場としていたが、次第に桃郷(島郷)海岸へと場所を移した。

 練習の成果は遠泳で確かめた。「会報」三号によると三十七年九月二十日、第一回水上運動会が開かれ、桃郷海岸から淡島を目指して三百人が遠泳に挑んだ。「エンヨー」の掛け声に励まされながら泳ぐものの、秋の海は波も高く、クラゲにも刺される。付き添う船に乗り込む生徒が続出した。泳ぎ切れなかった大塩忠夫(明39卒、故人)は、完泳した仲間を「『海国男子』の名に背かざるなり」と同誌でたたえた。

 大正末期から水泳部は、他校との競技に重点を置く部活動としての性格を強めるが、浜水泳は一年生を中心に伝統行事として続いた。永倉鋼太郎(昭6卒)は「初日にどの程度泳げるのか試験して等級を決めた。級によって帽子の色が違った」と振り返る。永倉は“中級”の赤白帽。「一番泳げない赤帽組でも三日もすれば泳げる。練習は厳しかったが、皆泳主義はありがたい」と懐かしむ。

 小山町から通っていた矢田保久(昭8卒)にとって、海での泳ぎ方を習うのは初めて。「当時の桃郷はきれいな遠浅の海岸。波が立てば怖かったが楽しくて仕方なかった」と高鳴るものがあった。「遠泳は牛臥山のふもとから淡島の手前で折り返し、御用邸裏の練習場へ戻った。折り返し辺りから波が立ち、泳ぎの列も乱れた。完泳した後、疲れ切ってやっと浜へあがったところで汁粉が振る舞われた」と鮮やかに思い出す。

 戦後も浜水泳は続いた。昭和三十二年、一年生対象の泊まりがけの海浜教室に切り替わり、水泳訓練だけでなく集団生活にも重点を置いた。大瀬、戸田、土肥、堂ケ島などで開催してきたが、ここ二十年ほどは土肥で開かれている。

(文中敬称略)

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