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「三九回」の生徒は一年生の夏休み、勤労奉仕で狩野川の河川敷へ行き、豪雨で埋まった工事用トロッコのレールの掘り出し作業にあたった。大村英男(昭18卒)は「徳倉橋近辺へ行った。埋まったレールは二万円の損害だと聞いた」と思い起こす。 援農が始まったのは四年生のころ。長泉や清水町、浮島などに出かけ、農作業の手伝いや道路の補修を行った。中山一郎(昭18卒)は「長泉で麦刈りを手伝い、のこぎりがまで指を切った。血がどくどく出たのを覚えている」。慣れない作業に苦労した。 昭和十八年ごろから、援農は低学年中心に変わる。育ち盛りには、農家の出すおやつは最大の楽しみ。浮島で暗きょ排水工事を行った佐野徳夫(昭24卒)は「三時のおやつはサツマイモ。水のある所で育つので甘くない。それでもうれしくて走って行った」。田植えを手伝った佐野利夫(昭25卒)は「白米のおにぎりが本当にうまかった。たくあんと小麦まんじゅうも出た」と印象深い。 裾野・岩波でのスギの切り出し、真冬の箱根・玄岳での植林も経験した。つらく危険な作業もあり、学校に行くことも少なくなった。佐野利夫は「特に苦痛ではなく、そういうものだと受けとめていた」。戦時色は一段と濃くなった。 軍需工場にもかり出された。五年で沼津海軍工廠(しょう)へ行った新井義信(昭20卒)は「航空機の部品を作ったと思うが、軍の機密で具体的なことは分からなかった」。佐野徳夫は一年の二月から二カ月間ほど三井精機へ。「二年生の時、勤労で表彰された。五、六十人の沼中生がいたと思う」と振り返る。新井は「薄暗くて汚い工場より、土のにおいのする援農の方がましだった。何を作っているかもわかるしね」。戦争の不気味さ、戦局の厳しさは勤労動員からも垣間見えた。
(文中敬称略)
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