<8>

第1部 歩み

勤労動員

次第に濃くなる戦時色

箱根・玄岳での植林作業=「沼中東高八十年史」から
 「母校にサンキュー、恩師にサンキュー、級友にサンキュー」。「沼中三九回」は昭和十三年入学の同期の集まり。三十一年から毎年一回集い、平成十一年四月には六十人の記念文集「香陵の杜」をまとめた。入学の年に国家総動員法が公布され、制服がカーキ色の国民服に変わったことに触れた文章が目を引く。

 「三九回」の生徒は一年生の夏休み、勤労奉仕で狩野川の河川敷へ行き、豪雨で埋まった工事用トロッコのレールの掘り出し作業にあたった。大村英男(昭18卒)は「徳倉橋近辺へ行った。埋まったレールは二万円の損害だと聞いた」と思い起こす。

 援農が始まったのは四年生のころ。長泉や清水町、浮島などに出かけ、農作業の手伝いや道路の補修を行った。中山一郎(昭18卒)は「長泉で麦刈りを手伝い、のこぎりがまで指を切った。血がどくどく出たのを覚えている」。慣れない作業に苦労した。

 昭和十八年ごろから、援農は低学年中心に変わる。育ち盛りには、農家の出すおやつは最大の楽しみ。浮島で暗きょ排水工事を行った佐野徳夫(昭24卒)は「三時のおやつはサツマイモ。水のある所で育つので甘くない。それでもうれしくて走って行った」。田植えを手伝った佐野利夫(昭25卒)は「白米のおにぎりが本当にうまかった。たくあんと小麦まんじゅうも出た」と印象深い。

 裾野・岩波でのスギの切り出し、真冬の箱根・玄岳での植林も経験した。つらく危険な作業もあり、学校に行くことも少なくなった。佐野利夫は「特に苦痛ではなく、そういうものだと受けとめていた」。戦時色は一段と濃くなった。

 軍需工場にもかり出された。五年で沼津海軍工廠(しょう)へ行った新井義信(昭20卒)は「航空機の部品を作ったと思うが、軍の機密で具体的なことは分からなかった」。佐野徳夫は一年の二月から二カ月間ほど三井精機へ。「二年生の時、勤労で表彰された。五、六十人の沼中生がいたと思う」と振り返る。新井は「薄暗くて汚い工場より、土のにおいのする援農の方がましだった。何を作っているかもわかるしね」。戦争の不気味さ、戦局の厳しさは勤労動員からも垣間見えた。

(文中敬称略)

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

静岡新聞へ