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第1部 歩み

校舎焼失

焼夷弾から燃え広がる

香陵の地に復興した新校舎=昭和25年度の卒業アルバムから
 昭和二十年七月十六日夜、空襲の警戒警報がけたたましく鳴り、杉山耕一、清水進一郎、小山敏介(昭25卒)らは学校へと急いだ。沼中周辺に住む二年生は警報が発令されると、銃器庫から銃を運び出す搬出班と消火班に分かれて持ち場に詰めることになっていた。

 杉山らはしばらく待機していたが、深夜になり警報が解除。帰宅の準備を始めたころに再び「敵機が向かっている」という情報が入り、校内に足止めされる。

 まもなく灯火管制で暗やみの町が、照明弾でパッと浮かび上がる。友人と応接室にいた搬出班の清水は「窓から照明弾が二つ見えた」。明るさに驚きながらすぐに銃器庫へ走った。杉山は「照明弾だと気づいたころには、香貫山と千本の方に火の手が見えた。グラウンドにも焼夷(い)弾が落ちた」。緊張がみなぎり、一瞬の出来事のようだった。

 消火班の小山は正門付近の防空壕の中にいた。「バーン、バーンという音が聞こえ飛び出した。水をかぶってから、火たたきで校舎の近くに落ちた焼夷弾をたたいた」と無我夢中で消火にあたった。

 搬出班は銃器庫から三八式歩兵銃や軽機関銃などを持ち出し、テニスコートに並べた。杉山は「普段はずっしりと重いのに、まったく重さを感じなかった」。消火の手伝いに駆けつけたころには校舎が燃え出し、すぐに手が付けられなくなった。

 校長芝順照(故人)の解散命令を受け、杉山、清水はプールへ飛び込んでから一目散に霊山寺を目指し、香貫山で明け方まで過ごした。清水は「校舎の骨組みが焼け落ちるまで見ているしかなかった」が、不思議と恐怖心はなかった。小山は学校そばの芋畑で馬力台の下に逃げ込んだ後、隣の田んぼで一夜を明かした。「来るなら来て見ろという気持ち」が支えになった。

 校舎を焼失した沼中生は、沼津農学校や沼津第四国民学校などでの分散授業、元海軍工廠庁舎の仮校舎を経て、昭和二十三年、再び香貫の校舎に戻った。「やっと落ち着いて勉強できる」と喜びをかみしめた。

 この年、沼中は新制沼津第一高等学校となり、二十四年には沼津東高等学校に改称。新校舎とともに新しい時代を迎えた。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

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